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平安時代、宮廷に仕えた女房たちのリアルな日常とは?――『紫式部と清少納言が語る平安女子のくらし』

記事:春秋社

宮仕えで養われた感性や経験が『源氏物語』『枕草子』などのすぐれた作品に昇華された。
宮仕えで養われた感性や経験が『源氏物語』『枕草子』などのすぐれた作品に昇華された。

宮廷のキャリアウーマン

 平安女子にとって宮廷は憧れの職場であった。『枕草子』にも「宮仕えしてよいのは、内裏。后の側」と記されている。内裏には天皇の后たちの住まう後宮があり、12の事務組織が置かれ、女官(にょかん)が配属されていた。天皇に最も近い部署として「内侍司(ないしのつかさ)」があり、長官は尚侍(ないしのかみ)と称し、臣下との取り次ぎ役を果たしていた。その下は、典侍(ないしのすけ)、掌侍(ないしのじょう)、命婦(みょうぶ)、女蔵人(にょくろうど)などで構成される組織があり、天皇が行う儀式から日常生活にいたるまで、日々密接に関わっていた。このほか、清少納言や紫式部のように、后に私的に仕える女房たちも後宮に住まい、生活していた。

 円融天皇に仕えた高階貴子(たかしなのきし)(一条天皇の中宮定子(ていし)の母)は、結婚よりも後宮女官となることを選択してキャリアを積み、掌侍の地位を得た女性である。加えて、男性もおよばないほどの秀でた漢籍の才があり、清涼殿で行われる詩宴に漢詩を奉るほど女性漢詩人の第一人者として名を馳せた。のちに、藤原道隆の妻となって、所生の藤原伊周(これちか)や定子にも熱心に漢籍を教授したといわれる。定子が清少納言と、白居易の漢詩「香炉峰の雪」に関する会話を弾ませたのも、貴子の漢籍教育によるものであろう。

 藤原道長が権勢を振るった11世紀に入ると、身分の高い女性も宮仕えすることが多くなってきた。そのような風潮を危惧した藤原伊周は死期を悟ったとき、あとに残る后がね(将来、后となるべき者)として育てた2人の娘に対して「末代の恥になることだから、宮仕えは絶対にしないでほしい」といい残したのであった。一方、清少納言は「平凡な結婚をして、ささやかな家庭の幸福に浸るよりも、宮仕えに出るべきだ。身分の高い家柄の娘などは宮仕えをして、広く世の有様を経験したほうがよいと思う」と、宮仕えは世の中を知るために役立つ職業であると記している。

宮仕えをして見聞を広める

 清少納言は8年間ほど、定子の私的な女房として仕え、出仕当初は、内裏において見るもの、聞くもの、すべてを珍しく感じていたようである。たとえば、天皇の私的空間である清涼殿に設置されている「荒海障子(あらうみのしょうじ)」には恐ろしい姿をした人物が描かれ、気味が悪いといいながらも興味をそそられている。さらに、天皇の食膳を運ぶ時に、蔵人たちが発する「お―し!」という先払いの声、30分ごとに時刻を知らせる声、「名対面(なだいめん)」といって午後10時頃に行う宿直(とのい)役を点呼する声など、宮廷独特の作法の趣深さに感じ入っている。

 宮仕えは世渡りの素養を深める場でもあったようだ。彰子の側近くに仕えた紫式部の宮仕えは5~6年ほどであったが、この間、彰子が2人の皇子を出産した。第一子敦成(あつひら)親王の誕生は、藤原道長の悲願であり、幾度も豪奢な祝宴が催された。とくに、誕生から50日目には「五十日(いか)の祝い」が盛大に行われた。出席していた藤原公任は酒の酔いにまかせてか、紫式部に向かって「このあたりに、若紫はおられるかな?」と冗談めかして尋ねたが、宮仕えに慣れた紫式部は「ここには光源氏に似た男性もいないのに、どうして紫の上がいるものかしら」と思い、無視するという処世術も身につけるようになっていた。

 内裏では、さまざまな年中行事があり、宮仕えをしなければ、到底、ふれることもない体験であったといえる。紫式部も清少納言も、11月に行われる新嘗会(しんじょうえ)に、強い関心を抱いたようで、紫式部はその様を含めて描いた『源氏物語』の巻名を、新嘗会後の豊明節会(とよあかりのせちえ)で舞われる五節舞(ごせちのまい)に因んで「乙女」としている。さらに、清少納言は定子が藤原相尹(すけまさ)の娘を五節舞姫(ごせちのまいひめ)として献上するくだりで、舞姫の世話をする女房や女童(めのわらわ)の装束について詳細に述べている。このように2人が目の当たりにした諸行事は『紫式部日記』や『枕草子』に記録されたほか、『源氏物語』にも反映され、物語られることになっていくのであった。

さらに洗練された女子になるために

 平安貴族の教養のひとつとして和歌の修練がある。清少納言も紫式部も中古三十六歌仙に選ばれているが、清少納言は宮仕えをしているあいだ、頑なに和歌は詠まない決心をしていたという。定子から和歌を詠むように命じられると、その場から逃げ出したくなるほどであったという。父である清原元輔(もとすけ)は「梨壺の五人」のひとりで『後撰和歌集』の編纂に携わるほどの歌人で、曾祖父深養父(ふかやぶ)も著名な歌人だった。清少納言が和歌を詠まなかったわけは、歌人の家名を汚さぬ思いが強かったからといわれている。

 和歌を詠むことをひかえていた清少納言であるが、後宮でくらしていたころ、蔵人頭(くろうどのとう。秘書官長)を務めていた藤原行成(ゆきなり)とは、頻繁に和歌の贈答をするなど親しく交流していた。行成は有名な能書家で、後世、「平安の三蹟」と称された人物である。ある時、行成の許から餅餤(へいだん。唐から伝わったとされる菓子の一種)に添えて文(ふみ)が贈られてくると、定子は行成が書いた文をさっと取り上げたという。なぜなら、行成の文は平安女子憧れの美麗な仮名文字で書かれていたからであった。定子はそれ手本にして、いっそう書の修練に励もうとしたのだろう。

 平安時代に「遊び」といえば雅楽を演奏することを指し、女性には琴(きん)、和琴(わごん)、箏(そう)、琵琶などの絃楽器が必須の教養とされていた。内裏には名器と名高い管楽器や絃楽器が宜陽殿(ぎようでん)に納められていた。『枕草子』には清少納言が天皇の所有である「無名(むみょう)」という銘のある琵琶を試しに弾いたと記されているほか、『源氏物語』には「六条院の女楽」で、紫の上をはじめとする光源氏にまつわる女君たちの弦楽四重奏の様子が描かれ、楽器の特徴についても詳しく述べられている。このように、二人は文学的才能に加えて、女性としての嗜みも兼ね備えていたといえる。

 平安女子の正装は、俗に「十二単」と呼ばれる「唐衣裳(からぎぬも)装束(女房装束ともいう)」で、特に重色目と呼ぶ配色がファッションセンスを問われるものであった。宮廷行事などに奉仕する女房たちの装束は女主人によって調製されることになっており、洗練された色使いに紫式部と清少納言は感銘をうけたことが綴られている。さらに、和歌を主題とした文様を刺繍で表現するなど、素晴らしい意匠にも接することができたのであった。宮仕えをしていなければ、到底着用することができない煌びやかな装束に身をつつむことができたことも、彼女らの感性を養う土壌となったといえるだろう。

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