小村雪岱と邦枝完二の「江戸役者」
記事:幻戯書房
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小村雪岱(1887―1940)は小説家の邦枝完二(1892―1956)とコンビを組んで度々新聞連載小説の挿絵を手がけた。その二人が初めて組んだ新聞連載小説が、『東京日日新聞』および『大阪毎日新聞』の夕刊で昭和7年(1932)に連載された「江戸役者」である。
装幀家から始まり、挿絵画家、舞台装置家としても活躍した雪岱が、大いに名を馳せたのが新聞や雑誌を通して大衆との接点が多かった挿絵画家としての仕事であり、特に邦枝とコンビを組んだ「江戸役者」以降の作品で、独自の挿絵画風〈雪岱調〉で描いた「おせん」(『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』1933)や「お伝地獄」(『読売新聞』1934―1935)といった新聞連載小説の挿絵は、その代表作として現代に伝わっている。
しかし、多くの読者の目に触れる新聞連載小説の、特に全国紙での仕事が挿絵画家にとって花形の仕事であったにもかかわらず、単行本としてまとまる際にその挿絵が収録される機会はほとんどない。確かに、単行本『絵入草紙おせん』(1934)のように、雪岱と長い付き合いの島源四郎の新小説社が出版を引き受け、雪岱の全挿絵が収録されただけでなく、函と表紙には作家の邦枝と並んで雪岱の名前も記されている特殊な例はあるものの、書籍と異なり読み捨ての新聞での仕事が結果的に時代に埋没し、忘れ去られがちであったことは否定できない。
新聞連載を終えた後、「江戸役者」の続篇として『サンデー毎日』で読み切りの「八代目團十郎」が発表され、「夏姿團十郎」の連載が続き、これら三作をあわせ、昭和9年(1934)1月に春秋社より『江戸役者』が刊行された。
装幀はそれぞれの挿絵を手がけた雪岱が担当し、新聞連載時の第34回から第50回までのカットとして使用された中村座の座紋〈角切銀杏〉をワンポイントにしたデザインとなっている。
ここで注目すべきはそれぞれの初出時の挿絵の存在で、前後の見返しに「夏姿團十郎」第14回の挿絵が左右半分に分かれる形で使われているが、
連載時の全挿絵を収録した『絵入草紙おせん』とは異なり、新聞連載小説「江戸役者」の挿絵全70点は一つも収録されておらず、当然、その装幀で雪岱が邦枝と名前を並べることもなかった。雪岱による「江戸役者」の挿絵は新聞連載を最後に、時代に埋もれてしまったのである。
そこで『江戸役者 東京日日新聞夕刊連載版』では長きにわたって埋没していた雪岱の「江戸役者」の挿絵を邦枝の文章とともに、現代に単行本として再現することを試みた。
このことにより、挿絵画風〈雪岱調〉が「江戸役者」をきっかけとして確立されてゆく様子や、続けて先に刊行した『おせん 東京朝日新聞夕刊連載版』を見ることでその線描や構図が成熟してゆく様子も一覧できるであろう。
また、「江戸役者」以前の二人が結びついた時期を確認した上で、「江戸役者」に関する二人のコンビによる新聞や雑誌での挿絵の仕事や、装幀や舞台装置といった雪岱の異なる三つの仕事を横断し、その名コンビの仕事を広く知ってもらいたいと思う。
邦枝完二の新聞連載小説「おせん」で挿絵画家としてその名を大衆に知らしめた雪岱だが、初めて新聞連載小説で邦枝とコンビを組んだのは「おせん」のほぼ一年前の昭和7年(1932)9月から12月にかけて『東京日日新聞』および『大阪毎日新聞』の夕刊で連載された「江戸役者」であった。
連載開始三日前の9月17日付の紙面には雪岱と邦枝の顔写真が並ぶ形で予告が掲載され、
宣伝文だけでなく邦枝のこの作品にかける意気込みを掬い取ることができる「作者の言葉」が添えられている。
三十二歳の若さで、浪速の旅舎で自殺した江戸随一の人気役者八代目團十郎を、私は前から一度描いて見たいと思つてゐた。潔癖家で、神経質で、負け嫌ひのところなど、如何にも近代人と共通してゐて面白いと考へたからだ。巧く描けるかどうかは疑問だが、たゞ、江戸から東京へかけて五代二百三十年東京に家の在る私は、所謂「江戸つ子」を描くには、好都合に出来てゐるらしい。この点多少手前味噌が物を言ふかも知れない。幸に御愛顧を乞ふ。
また、雪岱自身の文章はないが、九代目團十郎の30周忌を迎えるにあたっての編集部による宣伝文には、「構想の妙、筆致の快は、小村雪岱氏の挿絵と相まつて今秋文壇の大きな収穫であるばかりでなく必ずや読者諸氏を完全に魅了し去るであらうことを信じます。」と、挿絵画家の雪岱の紹介にも紙面が割かれ、その期待感が認められる。
こうして、邦枝とのコンビによる新聞連載小説の幕開きが高らかに謳われ、雪岱の挿絵画家としての成功への道筋が整う。そして9月20日(紙面上の発行日表記)に「江戸役者」第1回が掲載、全70回の連載はこの年の12月28日まで続いた。
邦枝の『双竹亭随筆』(興亜書院、1943)には、昭和15年(1940)10月に他界した雪岱への追悼文「雪岱さん」が収録されている。邦枝にとっても新聞連載小説の人気を支えた挿絵画家は、忘れ難き存在だったのであろう。
雪岱さんは無口で、そのくせ腰の低い、愛想のいい人であつた。新聞の長篇に挿絵をお願ひしたのは、昭和七年東日毎日に載せた「江戸役者」が最初であつた。その頃雪岱さんは、まだ善国寺谷の溝に臨んだ家にをられた。
と、その人柄を活写した上で、おそらく「江戸役者」連載にあたって雪岱の家を訪れたのであろう、その住まいの場所や様子についても言及している。
「江戸役者」は、拙作中でもいまだに好きな物の一つであるが、この時の雪岱さんの挿絵が実に好かつた。世間では朝日新聞に載せた「おせん」の挿絵を第一位に置いてゐるが、どちらかといへば、作者自身の好みからいつて、「江戸役者」の方が優れてゐたと思ふ。
雪岱とコンビを組んだ作品の挿絵の出来は、「江戸役者」の方があの「おせん」よりも優れていたとの邦枝の断言は注目すべきであろう。現代の評価とは異なる、作家視点の貴重な証言と言える。
八代目團十郎や芸者お雪の姿は、幕末の草双紙の味を充分に出してゐたし、その人物は鈴木春信の浮世絵から一皮むけて、すつかり雪岱さんのものになり切つてゐる。まつたく非の打ち所のない出来であつた。
文中の「草双紙」と「鈴木春信の浮世絵」は、浮世絵に傾倒していた邦枝が提示した挿絵のための資料と考えてよかろう。邦枝の意図を汲んだ雪岱は「江戸役者」の挿絵にそれらの特徴を巧みに反映させ、「まつたく非の打ち所のない出来」と邦枝を満足させた。邦枝が抱いていたイメージは、雪岱によって見事に具現化されたのである。
雪岱の挿絵画風〈雪岱調〉を語る時、その特徴として江戸中期の浮世絵師である鈴木春信の画風が常に挙げられてきたが、邦枝の言葉を繙けば、まさに「江戸役者」がこれを具現化していたことがわかる。
確かに、これまで〈雪岱調〉を語る際に必ず引用されてきた、鏑木清方の「云はゞ春信うつしの渾然として、ほんものになり切つたのは、邦枝完二氏の小説「おせん」の挿絵であらう。」(「序」『小村雪岱画集』、高見沢木版社、1942)との文章があり、ともに鏡花本の装幀者であった清方の言葉によって〈雪岱調〉=鈴木春信という方程式が周知されてきた。
だが、実の所「春信うつし」という浮世絵師の画風を採用するアイデアは、「おせん」以前の新聞連載小説「江戸役者」ですでに実践されていたことが、先の邦枝の文章からも明らかである。邦枝の強いこだわりを反映させ、雪岱独自の挿絵画風〈雪岱調〉に必要な最後のピースが埋まり、その画風の成立を迎える準備が整ったということだ。
しかし、「江戸役者」の挿絵で参照された浮世絵師は鈴木春信だけだったのであろうか。第40回、最終回の團十郎や、第35回の中村座の前の長吉など、浮世絵的なキャラクター造型は春信のそれとは異なり、初代歌川国貞(三代目歌川豊国)の画風を取り入れているように見える。
そうした考えを裏付ける当時の証言もある。「江戸役者」ではなく「おせん」の挿絵に対してではあるが、「絵は国貞辺の旧套を襲ひながら、小村雪岱の新しい感覚が現はれて居る。」(「現代一流雑誌挿絵論」第5回、『書物展望』1933・12)との酒井潔の評からは、雪岱挿絵の当時のキャラクター造型の客観的な受け止められ方が把握できよう。
事実、初代国貞が描いた市川團十郎の役者絵は広く知られており、浮世絵に造詣の深い邦枝がこれを見逃すはずはない。文章では言及されていないが、初代国貞の画風もまた、雪岱の「江戸役者」における挿絵の指針となったに違いない。
雪岱は邦枝とコンビを組むことで、様々な浮世絵師たちの画風を自身の挿絵に取り入れるという着想を与えられた。そして、それまで積み重ねてきた挿絵画家としての経験、『おせん』の解説でも稿者が述べた〈雪岱調〉の定義である「省略されたシャープな線描、遠近法を無視したパース、大胆な余白、画面全体を引きしめる黒と白のコントラスト。(中略)舞台装置家としての経験を生かした、俯瞰の構図。」と一体となり、雪岱は挿絵画家として比肩しえない独自の世界観を築き上げたと言えよう。
「江戸役者」は評判を呼んだだけでなく、邦枝自身の熱の入れようもかなりのものだったようである。最終回(第70回)の「作者付記」では早速、続編の執筆が発表された。
本篇は、八代目が大阪へ行つて死ぬところまで書くつもりでしたが、社との約束が、初めから本年一杯といふことになつてゐましたので、これでひとまづ筆を擱くことにいたしました。が、この続篇として、サンデー毎日の春季特別号に「八代目團十郎」の題で、百枚余の長篇を書くことになつてをります。
読み切りの長篇小説「八代目團十郎」
は、新聞連載終了の翌年に予告通り、『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』の系列誌である『サンデー毎日』の春季特別号(1933・3・10)に、「「江戸役者」続篇」とのサブタイトルが添えられて発表され、挿絵も引き続き雪岱が手がけた。「特別号」は通常と異なり読み物主体の構成で、判型もA4とコンパクトなサイズであった。
「八代目團十郎」の文末には再び「作者附記」が登場、團十郎が「死に到るまでは、いまだ多くの紙数を要しますので、複の機会に譲ることにいたします。」と書かれており、「江戸役者」への熱量が納まらない邦枝は、再び続編の制作に取りかかることとなる。
そして『サンデー毎日』第12年第25号(1933・5・28)にサブタイトル「「江戸役者」・「八代目団十郎」終篇」が添えられた「夏姿團十郎」の広告が打たれ、その翌週、すなわち春季特別号の三ヶ月後に同誌での連載が始まったことになる。いよいよ「江戸役者」が完結を迎えようとしていた。
予告のタイトル下には「挿画 小村雪岱画伯」とあり、雪岱の挿絵がこの連作にとって欠かせない存在だったことが伝わる。広告の大半を占めた邦枝の「執筆に際して」にはこうある。
大毎、東日、併びにサンデー毎日春季特別号を御覧下すつた読者諸氏は、既に御承知のことゝ存じますが、長篇小説「江戸役者」一篇は、八代目團十郎を主人公とした、華やかにもはかない江戸人の生活を、諸氏に味はつて戴きたいところから、筆を執つたものに外なりません。
「夏姿團十郎」が、「江戸役者」と「八代目團十郎」の続編であることを高らかに謳っている。続けて雪岱の挿絵についても触れている。
幸にして挿絵は夕刊以来の、小村雪岱氏に骨を折つて戴ける由。文章の缼が氏の彩管に因つて十分に補へることは、改めて申上げるまでもございますまい。
と三度コンビを組む頼もしさについて語り、新聞連載から雑誌の読み切り、そして雑誌連載と、一連の挿絵を続けて雪岱が手がけたのは、邦枝が大いに贔屓にしていたことの証左であろう。連載は第12年第26号(1933・6・4)から始まり、第12年第45号(1933・10・1)で完結した。6月から10月にかけて全18回にわたる連載であった。「おせん」で再びコンビを組むことになる挿絵画家への信頼は、この連作によって育まれた。
『江戸役者』の掉尾を飾った「夏姿團十郎」を、酒井潔が『書物展望』昭和8年(1933)12月号の「現代一流雑誌挿絵論」第5回で取り上げ、絶賛した。
小村雪岱の『夏姿團十郎』に於ける挿絵は文句なしに傑作だと思ふ。作と絵とがこの位、よく合つた例は一寸近来に珍しい事であつた(中略)元来小村氏挿絵の生命は、あの繊細なる線條にある。(中略)「サンデー毎日」の挿絵は、線條画家にとつて、最も好都合な、大きな画面、鮮明なる凸版印刷と云ふ條件がかなつて居る上に、其の題材が、画家に打つてつけと来て居るのだから、これで傑作が出来ねば、それこそどうかしてるわけである。
酒井が「大きな画面」と書いているように、戦前の『サンデー毎日』の通常号は判型が左右約262㎜×天地約384㎜を前後する大判であり、〈雪岱調〉のシャープな線描が「鮮明なる凸版印刷」で美しく表現されている。
酒井の評価は、こうした本文の印刷環境や、判型の大きさにも及び、雪岱の「線條」、すなわち線描は整えられた環境でこそ、その効果が十全に発揮されることを力説している。
雪岱はこの「夏姿團十郎」の連載で、本来一つの枠組みで描くべき挿絵を分割してレイアウトするという大胆な試みもしている。第10回の挿絵
を例として挙げよう。團十郎と小雪の密会の様子を描いた大きな挿絵の左下には、聞き耳を立てる寅吉の挿絵が小さく配されている。大きな誌面を生かして登場人物の行動や距離関係を複合的に表現することを試みているのである。
こうした試みはすでに「江戸役者」新聞連載時の第17回、第21回、第30回、第45回、第49回で見られ、挿絵表現の可能性を拡げるものであった。雪岱の挿絵表現というと挿絵画風〈雪岱調〉のみが注目されるが、登場人物の行動や距離関係、時間経過を挿絵で表現するために腐心し、「江戸役者」や「夏姿團十郎」で独自のレイアウトを試みたことも忘れてはならないであろう。
「江戸役者」は雪岱生前に刊行されたものに限れば二冊の単行本と一冊の叢書に収録されている。一冊目がすでに紹介した春秋社版『江戸役者』で昭和9年(1934)1月の刊行である。新聞での連載終了が昭和7年12月なので、単行本になるまでに実に一年以上の時間を要したことになる。これは単行本の『江戸役者』が表題作のほかに、先に取り上げた続篇の『サンデー毎日』春季特別号収載の「八代目團十郎」と「夏姿團十郎」の計三作で構成され、その完結を待つ必要があったからである。
また、春秋社版『江戸役者』刊行の五日後、昭和9年1月25日には、『朝日新聞』で昭和8年の12月に連載を終えたばかりの「おせん」が、『絵入草紙おせん』と題され、『江戸役者』と同じく雪岱の装幀で単行本化されている。
連載時の挿絵をすべて収録した『絵入草紙おせん』と異なり、『江戸役者』には挿絵が一切収録されなかったものの、連載時の評判がつとに好かった「おせん」にあやかり、刊行時期を合わせた可能性もある。そして、春秋社版『江戸役者』刊行のちょうど三年後、「江戸役者」は装い新たに、「おせん」もラインナップ入った全集の単行本の一冊として刊行される。
「江戸役者」「おせん」そして「お伝地獄」など、雪岱とコンビを組んだ好評の新聞連載小説の勢いに乗り、昭和11年(1936)9月に新日本社より雪岱装幀の『邦枝完二代表作全集』が全10巻の予定で刊行を開始された。9月から『お伝地獄』、『お伝情史』、『浮名三味線・色娘(おせん)』、『歌麿をめぐる女達』と一ヵ月ごとに刊行され、そして翌昭和12年1月には第4巻の『江戸役者』
が刊行された。
函の表には第22回の挿絵が左右反転して、本冊の表には第4回の挿絵が配されており、新聞連載の挿絵が転用さている。また春秋社版と異なり本文にも計11点の挿絵が収録され、うち6点は各章から一点ずつ選ばれている。連載時の挿絵に陽の目が当たった幸せな例と言えよう。
しかし、『邦枝完二代表作全集』の評判は芳しくなかったようで、2月に刊行された『浮名三味線 続篇 樋口一葉・紅涙女伝』を最後に途絶、最終的に六冊の刊行に終わっている。
先に取り上げた追悼文「雪岱さん」(『双竹亭随筆』)にて、邦枝は「雑誌では前から時々お世話になつてゐたが、新聞の長篇に挿絵をお願ひしたのは、昭和七年東日大毎に載せた「江戸役者」が最初」と書いている。この新聞連載小説の最初の仕事ですっかり雪岱の挿絵の虜になったようで、「新聞小説といふものは、作者画家共に一種のコツがあるものだから、所謂ウマが合はないとなかなか手際良く行かない。が、雪岱さんとわたしとは、いゝ具合に初めからウマが合つて、いづれも評判が好かつた。」と続けている。
では「江戸役者」以前に「雑誌では前から時々お世話になつてゐる」と邦枝が書いた、雪岱の挿絵の仕事とはどういったもので、また雪岱が初めて挿絵を手がけた邦枝作品とはなんだったであろうか。
稿者は長年にわたって雪岱の挿絵画家としての仕事の全体像を把握すべく、大正から昭和初期の多くの雑誌を実見、また蒐集してきており、その挿絵の仕事を多くの初出誌で家蔵しているが、実は現時点では「江戸役者」以前の雪岱と邦枝のコンビによる仕事は、昭和7年(1932)の『サンデー毎日』秋季特別号(9・10)収載の読切作品「北国五色墨」
しか確認できていない。
とすれば、「江戸役者」連載開始直前の、系列誌『サンデー毎日』の秋季特別号に発表された、喜多川歌麿の浮世絵の代表作から題名が採られたのであろう「北国五色墨」には、初めて新聞連載小説でコンビを組むにあたっての、互いの呼吸を確認し合うための下稽古的な性格があったのかもしれない。
事実この「北国五色墨」から雪岱の挿絵画風には、歌麿を模したような浮世絵的なキャラクター造型が見られ、これも先述したように邦枝の具体的な意向を雪岱が反映させたと考えるべきであろう。また、この作品は〈雪岱調〉の代名詞とも言えるシャープな線描では表現されておらず、挿絵画風確立の試行錯誤の様子が見て取れるものの、しかし、邦枝を通して浮世絵の画風を取り込むというアイデアに出会ったことで、実は「江戸役者」でなく「北国五色墨」で、挿絵画風〈雪岱調〉確立に到る要素が揃ったことになる。
繰り返しになるが、邦枝は「雑誌では前から時々お世話になつてゐる」と書いており、これを文字通りに受け止めれば、雪岱は「江戸役者」以前にも複数の邦枝作品の挿絵を手がけていたと思える。しかし、現時点では「江戸役者」以前の雪岱挿絵による邦枝作品は「北国五色墨」の一点しか確認できていない。
こうして雪岱と邦枝が初めて一緒に仕事をした作品が「北国五色墨」ならば、この作品こそが挿絵画風〈雪岱調〉確立の起点であったと見なすことができる。そしてそれまで積み重ねてきた雪岱の線描を生かした挿絵画風が、おそらく邦枝の要望による浮世絵師の画風を取り入れるという行為、「北国五色墨」では歌麿の画風を、「江戸役者」では邦枝の書く春信だけでなく初代国貞の画風も取り入れるというアイデアに到り、「おせん」でも同様であったことは前掲の酒井の指摘する通りである。様々な浮世絵師の画風を取り入れるという邦枝の意向、アイデアが反映されたと考えれば、各作品それぞれの登場人物のキャラクター造型が微妙に異なるのも首肯できる。
雪岱は「江戸役者」のための顔合わせ的な作品とも言える「北国五色墨」で、浮世絵師の画風を取り入れるというアイデアを邦枝に授けられ、以降様々な浮世絵師、歌麿、国貞、春信らの画風を取り入れることで、挿絵画風〈雪岱調〉確立の最後の指針を得たのである。
新聞連載小説「江戸役者」は『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』とで、明らかに邦枝の意向と思われる形で一部表現が異なる箇所がある。春秋社版『江戸役者』では『東京日日新聞』の表現の採用を確認しているので、送信手段の限られた時代ゆえ先に原稿を大阪へ送った後で、邦枝はぎりぎりまで表現を検討し、変更を加えたのではないだろうか。
また、これは挿絵についても当てはまり、例えば第21回は分割挿絵だが、『東京日日新聞』では外を覗く金八の挿絵が左側(後半)に、『大阪毎日新聞』では右側(前半)にあり、
当然読者が受ける印象は異なるものになるであろう。この金八の挿絵は最後の三行を描写したものなので、となれば『東京日日新聞』の方が正しいと言える。文章の表現が一部異なるのは邦枝自身の差し替えによるものと思われるが、レイアウトのそれは距離ゆえに指示が行き届かないこともあったのではないか。東西の紙面を見比べる機会はまず無いと思われるので、ここに付しておきたい。
令和4年(2022)師走、ある方から連絡を頂き、新聞連載小説「江戸役者」の全70回分の挿絵原画が、ある古書目録に掲載されていることを知った。
翌月に古書店で実見させて頂いた原画は、雪岱による題字と思われる折帖でまとめられており、緊張感ある線描はため息がでるほどに美しく、まさに〈雪岱調〉の原点があった。
雪岱と邦枝の名前から連想する作品が「おせん」や「お伝地獄」であることは確かだ。連載時の挿絵をすべて収録し、著者の邦枝と挿絵画家の雪岱が名前を並べて表記された『絵入草紙おせん』、そして戦後には、すでに消え失せつつあった木版印刷による豪華な造本の『おせん』(1949)が刊行されるなど、「おせん」は邦枝自身の思い入れも深かった。また「お伝地獄」の挿絵は、連載紙の購読部数を押し上げる役割を担うまでに評判を呼んだ。「お伝地獄」は邦枝の代表作というだけでなく、挿絵画家としての名声を大いに高めた雪岱の代表作とも言え、その仕事や〈雪岱調〉を論じる際には必ず取り上げられる作品である。
しかし、先に述べたように、「おせん」以前の作品、「北国五色墨」や「江戸役者」といった作品を通して、雪岱はすでに浮世絵的世界を自身の挿絵画風に取り入れる機会を得て、反映させていたと考えられる。その様子を、この『江戸役者 東京日日新聞夕刊連載版』で見ることができたのではないか。
こうした視点は、今まで清方が言及する春信ばかりが取り上げられ、ほかの浮世絵師の画風にまで論が至っていなかったために、先の拙編著『おせん 東京朝日新聞夕刊連載版』の解説で初めて示したものである。「北国五色墨」そして「江戸役者」で、雪岱が〈挿絵画風〉の方向性を定めることができたと捉えれば、これらは「おせん」や「お伝地獄」以上に重要な挿絵作品だと見なすことができよう。
小説と挿絵という異なるジャンルではあるが、互いの世界を試行錯誤しながら探り合い、互いの作品の親和性を確認し合うことで、雪岱は邦枝から浮世絵師の画風を〈雪岱調〉に取り入れるというアイデアを得て、自身の生涯をかけるべき画風に到達したのではないか。
雪岱が邦枝に「あなたの絵を描くのが、一番描きよござんす」(「雪岱さん」)と言っていたように、邦枝自身もまた「わたくしの作品に一番ぴつたり来るのは、やはり何んと云つても雪岱氏の絵です。」(「雪岱氏の挿絵に就て」『書窓』通巻9号、アオイ書房、1935・12・18)と断言していた。互いの作品に共感し、響き合う二人の感性により挿絵画風〈雪岱調〉が誕生したと考えれば、その方向性に決定的な影響を与えた邦枝を、〈雪岱調〉の共同制作者と見なすこともできよう。
「江戸役者」とそこに到る前の「北国五色墨」において、雪岱は邦枝から鈴木春信や歌川国貞、喜多川歌麿らの画風を取り入れる機会を得て、自身の挿絵画風を前進させた。
今回、邦枝との仕事を整理し、「おせん」や「お伝地獄」に隠れていた、雪岱と邦枝の二人の美意識が重なり合った嚆矢とも言える「江戸役者」に光を当てたことで、挿絵画風〈雪岱調〉の確立に最も重要な役割を担った場所を、そして挿絵画家小村雪岱の新たなスタート地点を、照らすことができたのではないかと考えている。
※本稿は邦枝完二著、小村雪岱画『江戸役者 東京日日新聞夕刊連載版』(幻戯書房 2023)の巻末の解説から全注釈を割愛し、再構成したものです。
『江戸役者 東京日日新聞夕刊連載版』の解説では、小村雪岱をめぐる新たな情報、「江戸役者」のさらなる細部、またその映画化や日本舞踊の舞台美術にも論及しています。ぜひ同書をご高覧ください。