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高卒フリーター、一流商社の支社長になる 軍事独裁国家ナイジェリアの世紀末

記事:春秋社

ナイジェリアに布教をするお坊さんこと川名上人とオバサンジョ元大統領
ナイジェリアに布教をするお坊さんこと川名上人とオバサンジョ元大統領

高卒フリーターが支社長代行になるまで

 高校卒業後、定職に就かずに国内外のダイビングショップやリゾート施設、輸入雑貨店やエスニックレストランなどのアルバイトを転々として気ままな暮らしをしていた「僕」こと石川コフィ。人生に大きな転機が訪れたのは、ひとりのお坊さんとの出会いだった。

 アフリカに仏教を広める活動をしているという御上人は、かつては生命保険会社の社員であり、ウェイトリフティングの選手として国体や日本選手権で優勝した経験もあるという。御年70を超えても逆三角形の体型を維持しているほど若々しくて筋肉質だ。その御上人が住職を務める葉山のお寺に訪ねていった僕は、到着するなり太鼓を渡され、大声でお題目を唱えるように命じられる。日暮れまでお題目を叫んだ後、鍋料理を振る舞われ、酔いも回って良い気分になった頃、お坊さんはこう言った。

 「君はナイジェリアに行きなさい。私の義理の弟がM社で人事の責任者をしている。そこでナイジェリア支社長を募集しているから、私が紹介してあげよう

 M社といえば日本を代表する一流商社。爆音でお題目を唱えた功徳があったのか、突然降ってきたコネ入社に浮かれて意気揚々と本社に面接に向かう僕。面接に集まったのは見るからに頭の良さそうなエリートばかりだが、僕は優先で別室、しかも応接室に通されるという特別待遇。人事担当者は僕の履歴書を見て、思いも寄らぬ一言を言い放った。

 「君以外から選ぶから、君はもう帰って

 やはり高卒フリーターに一流商社の駐在なんて夢のまた夢。門前払いのように不採用を通知された訳だが、僕を足蹴にした人事担当者は後日バイト先のレストランに電話を掛けてくる。聞けば僕以外の人間はみんなナイジェリア行きを辞退したのだという。こうして「僕」のナイジェリア行きが決まった。1998年のある春の日のことだった。

ナイジェリア連邦共和国
ナイジェリア連邦共和国

世紀末のナイジェリア

 「みんなナイジェリア行きを辞退した」のには理由があった。

 「僕」の赴任から遡ること5年、ナイジェリアでは民主的な選挙が行われたにもかかわらず、軍政の国家元首が選挙無効を宣言、大暴動に発展する。元首は職を退いたが、軍人であったサニ・アバチャが政権を奪取する。アバチャは民主活動家のケン・サロ゠ウィワやオルシェグン・オバサンジョ、アフリカ人初のノーベル賞作家ウォーレ・ショインカなど政敵を次々と投獄する(サロ゠ウィワは実際に絞首刑に処せられ、ショインカにも死刑が宣告されたが国外逃亡で命を繋いだ)。独裁者アバチャは在任中に数十億ドルもの私財を横領したと言われている。政情の混乱した90年代のナイジェリアは行政も警察も汚職や腐敗に満ちておりインフラはまともに機能しておらず、最大都市ラゴスは当時「世界で最も治安が悪い都市」として知られていた。

 しかしながら恐怖の独裁者アバチャだけがこの混乱の原因ではなく、ここに至るナイジェリアの歴史が大きく関係している。1960年、英国殖民地から独立を果たしたナイジェリア連邦共和国には様々な民族が暮らしており、中央の政府はその多様な人々をまとめ上げるだけの力を有していなかった。

ナイジェリア北部郊外の村(著者駐在中に撮影)
ナイジェリア北部郊外の村(著者駐在中に撮影)

 北部は乾燥した地帯でイスラーム教徒が多く、高温多湿な南部には東にイボ人、西にヨルバ人が多く暮らしている。日本の外務省によれば250以上の民族が国内に存在すると推定される。殖民地時代から長きに亘って存在していた民族間の軋轢は近代国家においては政治問題として顕在化する。66年にはイボ人たちによって最初のクーデターが勃発。間もなく鎮圧されたものの、翌67年にイボ人たちが結集して東南部で「ビアフラ共和国」の樹立を宣言した。天然資源の多いこの地帯の独立が認められることもなく、欧米諸国を巻き込んだ内戦に発展する。ビアフラ戦争では激しい戦闘と困窮により200~300万人の死者が出たと言われ、また多くの難民・避難民も生まれた。ちなみにラブストーリーを織り込みながらこのビアフラ戦争を描いたチママンダ・ンゴズィ・アディーチェによる現代ナイジェリア文学の傑作『半分のぼった黄色い太陽』のタイトルは、ビアフラ共和国の国旗を表している。

ビアフラ共和国旗
ビアフラ共和国旗

 内戦は1970年にビアフラ共和国側が降伏して終結、ビアフラ政府は国外に亡命したが(ビアフラ亡命政府は現在も存在している)、政情の混乱は収まらなかった。軍事政権による支配は長く続き、79年に一度は民政移行を達成するものの4年足らずでふたたびクーデターが勃発し軍事独裁政権に逆戻り。独立以来90年代までに合計7回のクーデターを経験している。

 政治的混乱は長く続いたが、独立以来アフリカ最大の人口を擁していたナイジェリアは資源にも恵まれたアフリカ屈指の大国であり、また多くの文化人が世界で活躍していた。先述のショインカやアディーチェだけでなく、チヌア・アチェベやベン・オクリなどの作家は日本を含む世界中で多くの読者を活躍しているし、「アフロビート」の創始者フェラ・クティのようなミュージシャンも生み出している。一時期日本で人気を博したタレントのボビー・オロゴンもナイジェリア出身である。

恐怖の独裁者、急死

 恐怖の独裁政権はそう長くは続かなかった。サニ・アバチャは1998年6月8日に突然急死する。奇しくも「僕」が日本からナイジェリアに向けて出発した翌日のことである。アバチャの後継者となったアブドゥルサラミ・アブバカールは民政移行を宣言し、1999年5月にかつて国家元首として最初の民政移行を果たしたオルシェグン・オバサンジョが大統領に選出、就任。ここに現在に続く民主国家としてのナイジェリアが誕生したのである。

 どういうご縁だろうか、「僕」をナイジェリアに誘ったマッチョのお坊さんはなんとオバサンジョ大統領の「親友」なのだという。まだ混迷を極める前のナイジェリアで、彼はオバサンジョの自宅に居候をしながら国内を歩き回り、布教活動をしていたのだ。しかし政変によって身の危険を感じた彼は帰国を決め、オバサンジョも反逆罪で投獄されてしまった。日本からふたたびナイジェリア布教を夢見ていたマッチョ坊主は、大統領に就任したオバサンジョを祝うため、そして布教のためにナイジェリアを来訪する。

 話はそれだけでは終わらない。このお坊さんはナイジェリア大統領となったオバサンジョの胸ぐらに摑みかかり大喧嘩をすることになるのだが、その顛末は本書『筋肉坊主のアフリカ仏教化計画:そして、まともな職歴もない高卒ほぼ無職の僕が一流商社の支社長代行として危険な軍事独裁政権末期のナイジェリアに赴任した2年間の話』(石川コフィ著)でお楽しみいただきたい。

(文:春秋社編集部)

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