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クーデタやポピュリズム 権威主義体制が権力を獲得する7つの方法

記事:白水社

私たちは、ビジネスパートナーや援助先として権威主義体制と関わり、また国内の権威主義化に向き合わなければならない地点に立っています。デモクラシーが後退する潮流を、新しい局面から捉える! エリカ・フランツ著『権威主義──独裁政治の歴史と変貌』(白水社刊)は、Q&A形式で全篇わかりやすく記された人文書。21世紀を生きる私たちが身を守るために必読の一冊。
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権威主義体制はいかに権力を獲得するのか?

 1946年から2010年にかけて、250の新しい権威主義体制が権力の座に就いた。その約半分の事例(46%)では先行する権威主義体制に取って代わり、また4分の1強の事例(29%)が民主主義体制を打倒し、残りの事例では独立を機に成立した。

 これまでの研究では、権威主義体制の権力獲得には7つの方法が一般的であることが明らかにされている。つまり、王族による世襲、クーデタ、反乱、民衆蜂起、権威主義化(たとえば現職者による権力奪取)、支配集団の構成ルールの変更、もしくは大国による押しつけである。

権威主義体制の支配権獲得方法[エリカ・フランツ『権威主義──独裁政治の歴史と変貌』(白水社)p.114より]
権威主義体制の支配権獲得方法[エリカ・フランツ『権威主義──独裁政治の歴史と変貌』(白水社)p.114より]

 第二次世界大戦後、クーデタは独裁者志望の人びとが支配権を握るもっとも一般的な方法であった。クーデタはすべての権威主義の権力獲得例の46%を占めている。クーデタの例としては、1964年にブラジルの軍事独裁が権力を掌握したクーデタ、また1966年、最終的にスハルトが権力の座に就いたインドネシアのクーデタなどがあげられる。ブラジルのクーデタは民主主義体制を、一方、インドネシアのクーデタは権威主義体制を打倒してのものであった。

 権威主義化は、権威主義体制の権力掌握において2番目に一般的な方法であり、すべての権力獲得例の18%を占めている。権威主義化とは、リーダー集団が民主的な選挙を通じて権力を握ったものの、その立場を利用して反対派を不利な状況に追いやり、支配権を強化するものである。たとえばつぎの事例などがある。ケニアでは、独立直前の1963年に普通選挙で勝利したケニア・アフリカ民族同盟が、その後事実上の一党支配を敷いた。ザンビアでは1996年に現職のフレデリック・チルバ大統領が、対抗馬(ケネス・カウンダ)が大統領選に立候補するのを阻止する憲法改正に署名した。そしてベネズエラでは2005年、政府が反対派を脅迫し、不利な立場に追いやる選挙戦を長々と展開したすえ、野党が選挙をボイコットし、ウーゴ・チャベス大統領の支持者が議会の全議席を獲得した。

 反乱と大国による押しつけはその次によくみられる方法で、それぞれ13%と12%である。反乱は武装集団が国軍との武力衝突で勝利し、権威主義の政府を打ち立てるものである。この点で反乱は民衆蜂起と異なり、多くの場合後者は、非暴力の大衆デモのことである。反乱による権力獲得例には、1975年のポルトガルに対する独立闘争を展開したアンゴラ解放人民運動の勝利、1994年のポール・カガメ率いるルワンダ愛国戦線によるルワンダ政府軍・フツ族民兵に対する勝利などがある。大国による押しつけとは、典型的に、外国勢力が占領後の時期に権威主義体制を敷くものである。例として、1949年の東ドイツの建国(ソ連が行政権を新生ドイツ民主共和国に委譲した)、そしてアメリカ占領後の1966年にドミニカ共和国で成立したバラゲール体制などがあげられる。

 残りの権威主義体制による権力獲得の方法として、民衆蜂起、支配集団の構成ルールの変更、そして王族による世襲がある(それぞれ5%、4%、2%)。民衆蜂起による体制転換は突発的な出来事である。例として、イスラーム統治を取り入れたイラン革命、ロベルト・コチャリャンが権力を掌握したアルメニアでの1998年の大衆抗議運動などがあげられる。支配集団の構成ルールの変更はそれほど明白に進むものではない。これは権威主義の現職者が、支配集団がもはや同じではないといったように、(ときに非公式に)行動指針を変更したときに生じる。たとえば、サッダーム・フセインが公式に支配権を握った1979年のイラクでは、バース党からエリートを輩出する体制から、主にサッダームの個人ネットワークから輩出する体制への移行が生じた。最後に、王族の世襲は、ある国が独立したのち、支配的な家系が正式に統治権を得る際に生じる。例として、1961年にクウェートで成立した体制があげられる。サバーハ家はイギリスの保護下でクウェートを統治してきたが、独立後正式に権力の座に就いた。

[中略]


【著者エリカ・フランツらによるオンライン討論会(英語)/Covid-19 A Gateway To Authoritarianism? | Full Event | Oxford Union Web Series(右下の歯車アイコンをクリックすると字幕翻訳できます。)】

ポピュリストのレトリックはいかに権威主義化を容易にするのか?

 ここ約10年の世界の動きが示すのは、ポピュリズムが権威主義化の足場となり、民主主義的に選ばれたリーダーらが使うポピュリストのレトリックが、権威主義への移行の起点となっているということである。むろん、ポピュリズムは新しい現象ではなく、それが促すメッセージの根幹はここ十数年来変わっていない。しかし、独裁を熱望する者が権力の座に就くためのポピュリズムの利用法には変化がみられる。つまり、現在では、それまでの民主主義ときっぱり断絶させるためではなく、むしろそれを巧妙に蝕むためにポピュリズムが利用されるのである。

タイプ別の権威主義体制持続の平均値[エリカ・フランツ『権威主義──独裁政治の歴史と変貌』(白水社)p.156より]
タイプ別の権威主義体制持続の平均値[エリカ・フランツ『権威主義──独裁政治の歴史と変貌』(白水社)p.156より]

 ポピュリストの脚本には、いくつか中心的なメッセージがある。第一に、リーダー(またはその一団)のみが、救済を求める国家を救うことができるというものだ。その考えとは、市民は毅然とした強いリーダーを求め、先見の明のある執政者のみが国家が直面する問題を解決できるというものである。このメッセージは、権力の強化を正当化するものであるため、権威主義化への道を開くものでもある。結局、リーダー集団の強化に支持を与えることは、暗に、そうした集団を牽制しうる諸機関の力を弱めることに支持を与えることも含意する。たとえば、1946年にアルゼンチンでフアン・ペロンが大統領に選ばれたとき、彼のメッセージは、この国には「実際に問題を解決できるような、強くてカリスマ性のあるリーダーが緊急に必要である」というものであった。その後アルゼンチンは、1951年からペロンによる権威主義化を経験することになる。

 第二のメッセージは、伝統的な政治エリート(もしくはほかの指弾されるべき「愛国的でない」集団)は、危険で腐敗しており、また、主要政党のような既存の諸制度はその役割を果たしておらず、物事に対処することができないというものである。たとえば2002年当時、ベネズエラの大統領であったチャベスは、「われわれは世界の大部分を破壊してきた特権的なエリートに対峙しなければならない」と述べた。同じく、1990年のペルー大統領選でのフジモリのスローガンのひとつは、伝統的な政治エリートが候補としてふさわしくないことを示唆する「あなたのような大統領」であった。さらに、1994年の大統領選に出馬したベラルーシのアレクサンドル・ルカシェンコは、権力者は不正にまみれており、彼のみが「すべてを喰らう蛸のように、あらゆる政府機関に触手を伸ばし陥れる」ような腐敗状況を打破できる、という強いメッセージで選挙戦に臨んだ。その後、ベネズエラでは2005年に、ペルーでは1992年に、ベラルーシでも2004年に権威主義化を経由して独裁へと移行した。

 ポピュリストのメッセージの三つ目は、メディアおよび/または専門家は信用できないというものである。ここでの目的は、彼らの主張の真実性に疑いの目を向ける情報源の信用を傷つけることである。もしメディアも専門家も信用に値しないのであれば、彼らが政府の方針に反するいかなる証拠を提示しても、信じる理由はなくなるだろう。それゆえ、メディアや専門家の知見が信用ならないとするメッセージを喧伝する意図は、政府の政策や業績を注意深く批判的に評価できる市民の能力を弱めることにある。ポピュリストは自らを、直感的に善悪の違いを峻別し、自身の考えを知らしめるのに専門家やメディアを必要としない「人びとの声の代弁者」として売り込むのである。

 これら古典的なポピュリストのメッセージはすべて、正常に機能する民主主義と相反するものである。なぜなら、もし民主主義がさまざまな制度に反発し、政策を命じる特定の個人や集団に依存したり、選挙競合が政党単位ではなく強烈な個性によってのみ牽引されたり、有権者が政策選択する際に自由なメディアや適切かつ重要な情報にアクセスできないのであれば、民主主義の正常機能は脅かされることになるからである。

ミャンマーの民主化について、「軍が依然として政治的に強力であることが判明し、多くの人が見方を変えようとしている」と記している。
[エリカ・フランツ『権威主義──独裁政治の歴史と変貌』(白水社)p.166─167より]
ミャンマーの民主化について、「軍が依然として政治的に強力であることが判明し、多くの人が見方を変えようとしている」と記している。 [エリカ・フランツ『権威主義──独裁政治の歴史と変貌』(白水社)p.166─167より]

 たとえまだ完全な独裁にはいたっていないにせよ、ポピュリズムは多くの国や地域で民主主義の後退を引き起こしている。たとえばフィリピンでは、ロドリゴ・ドゥテルテ大統領が2016年の大統領選でポピュリスト的な公約を活用した。就任後、彼は、多数の市民を死に追いやったという理由で、残酷なやり方で薬物を取り締まった。また、メディアに対する攻撃があまりにもひどいため、フィリピンは現在、ジャーナリストにとって世界でもっとも危険な国のひとつとなっている。こうした経緯から、ある観察者によると、現在のフィリピンは独裁の瀬戸際かもしくはすでに独裁になったとされる。

 ハンガリーでも同じく、ポピュリストのメッセージを駆使して2010年に権力の座に就いていた首相のヴィクトル・オルバーンが、2014年の議会選挙前に選挙法の改正を強行して、与党フィデス=ハンガリー市民同盟の勝利を確実なものとした。また彼は、2016年、フィデスをめぐる数々の汚職スキャンダルを暴露してきたハンガリーの主要紙(『人民の自由』[ネープサバチヤーグ])を廃刊に追いやった。さらに、各国の統治の透明性を見張る国際監視団体は、メディアや広告媒体への行き過ぎた統制が野党を深刻なほど不利にしているとして、オルバーン政権を批判している。

 ニカラグアでも、2006年の自由公正な大統領選で、ポピュリスト的な題目を喧伝したダニエル・オルテガが勝利したものの、近年は民主主義を蝕む行為がたびたび繰り返されている。たとえばオルテガは、彼の妻や息子や娘たちを政府の要職に就けたり、2014年に憲法を改正して3期目の大統領選に出馬できるようにしたり、2016年には反対派議員を国会から追放したりした。

 要するに、必ずとまでは言わずとも、ポピュリストのレトリックは往々にして民主主義の後退全般、とくに権威主義化に大きく寄与しているのである。

【エリカ・フランツ『権威主義──独裁政治の歴史と変貌』(白水社)「第6章 権威主義体制の権力獲得のしかた」より】

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