芸術を追求する道の「険しさ」と「愉しさ」――『速水御舟随筆集 梯子を登り返す勇気』(平凡社ライブラリー)
記事:平凡社
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速水御舟は、細かい観察に基づいた細密描写と、計算しつくされた構図、そして幻想的なテーマなど、常に新たな手法に挑戦し続けながら、多くの作品を制作しました。特に知られている作品のひとつが、本書の表紙にもなっている《炎舞》です。形を変え続ける炎の一瞬の姿が巧みに表現され、その炎に引き寄せられてきた蛾の舞う様子が、幻想的に描かれます。
この作品に張り巡らされた細やかな意識は、御舟が残したすべての作品に共通するものです。御舟はいったい何を思い、画布に向かっていたのでしょうか。本書に収録された御舟の言葉をたどると、御舟の制作の真髄が見えてきます。
が、私の場合には、製作するという事は、決して、楽しみばかりではない。自分の経験からいうと、気の向いた時にだって、絵はなかなか出来ない。(中略)製作するのも骨だが、絵を描かずに遊んで居るのは、なお骨が折れる。(「心境を語る」)
第一、本当にいい作品を作りたいと考えることすら、理論から言って、雑念だと言わなくてはならないものと私は考える。描かずにいられなくて描くという、あたり前の気持で描いたものこそ本当の芸術品であると思いながら、そのあたり前のことが出来ないのである。(「雑念の解脱と芸術的良心」)
何かを生み出そうとする時、そして目の前の課題に取り組もうとする時、多くの人が何らかの壁に突き当たるのではないでしょうか。御舟が制作について語る言葉から浮かび上がってくるのは、その壁を乗り越えることの難しさと、だからこそ生まれる楽しさです。
筆をとる御舟の思いがもっとも端的に表れているのが、本書のタイトルにもなっている以下の言葉です。
梯子の頂上に登る勇気は貴い、更にそこから降りて来て、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い。大抵は一度登ればそこで安心してしまう。そこで腰を据えてしまう者が多い。
登り得る勇気を持つ者よりも、更に降り得る勇気を持つ者は、真に強い力の把持者である。
ここまで御舟が制作について語った言葉をご紹介してきましたが、彼は決して仕事一辺倒の人物だったわけではありません。本書に収録された、御舟を知る人々の回想録からは、実直ながらもユーモアにあふれた魅力的な人柄が浮かび上がってきます。次に挙げるのは、御舟の次女である吉田和子さんの随談です。
父と母は子どもから見ても仲がよく、まるで友人のようでした。その記憶のどれもが微笑ましいものばかりです。銀座に出かけるたびに、タクシーを使うといってきかない父。それを母はたしなめるのですが、結局は家族みんなで乗っていくんです。 (「父と過ごした日々」吉田和子)
「数々のすぐれた作品を残した日本画家」――そうした表面的な言葉だけでは説明しきれない、ひとりの画家としての御舟が、本書を通じてより身近に感じられてきます。カラー口絵には御舟の代表作も掲載し、御舟の魅力が凝縮された一冊です。
文/安藤優花(平凡社編集部)
作家言
悲痛な美
心境を語る
型を恐れる
芸術小感
雑念の解脱と芸術的良心
諸家の使用せらるる紙・墨・筆
態度について〈画家の生活〉
苦難時代を語る
楓湖先生と今村紫紅さん
あの頃の話〈京都時代〉
夜の富士
奈良、羅馬、埃及の夏
伊太利の旅より
花ノ傍
私の行く道
批評に就いて
芸術の本質〈日本画は何処へ行く〉
帝展問題
絵画の真生命
日本画壇の動向に就て
一問一答
想片
偶感
今の私の気持
行為あるのみ〈何を描きたいか?〉
仕事は私の総ての帰着である
速水御舟語録
付録
速水御舟氏の近業を観る 岸田劉生
すぐれたる天禀 安田靫彦
厳格なる生活 高橋周桑
父と過ごした日々 吉田和子