プロレス・野宿…面白ければやってみる! 独自のフェアやイベント開催:東京・中井 伊野尾書店
記事:じんぶん堂企画室
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都営地下鉄大江戸線中井駅A2出口を出て、右側に顔を向けると、赤い文字の「本」という看板が目に飛び込んでくる。この伊野尾書店があるのは、大江戸線中井駅と西武新宿線中井駅を結ぶ駅前商店街で、両駅の乗り換え客はもちろん、地域に暮らす老若男女が行き交う、人通りの多い場所だ。伊野尾書店の2代目店長である伊野尾宏之さんの父が、1957年に店を開いたのがはじまりで、当時は長屋のような建物に花屋や薬屋が並び、伊野尾書店もその一つだったという。
「昭和30年代当時の様子はわかりませんが、少し歩くと畑があり、すごく田舎っぽかったと聞いています。私もここで生まれ育ちました。店の奥に住居スペースがあって、仕事も家のことも全部一緒、という感じ。店の広さは今とあまり変わっていません」
そう語る伊野尾さんは、親から店を継いでほしいと言われたことはなく、自分もそのつもりはなかったという。大学卒業後、歌舞伎町のゲームセンターでアルバイトをしていたある日、父がバイクで配達中に転倒し、ケガをしてしまう。そこで、伊野尾さんが店を手伝うことになった。24歳の時のことだった。
「ゲームセンターのアルバイトをこのままずっとやっていくのかと行き詰まりを感じていた時に、臨時で本屋の仕事を手伝うことになりました。働いているうちに、本屋のオヤジとして生きていく人生もあるのかも、と思ったんです」
現在、伊野尾書店が1階に入るビルができたのは1999年のこと。大江戸線中井駅が新設されるのに伴い、東京都から立ち退きを求められたが、伊野尾さんの父が粘り強く交渉。土地の一部を東京都に譲り、残った土地に建てたビルで書店を続けることになった。伊野尾さんが父を手伝うようになったのは、店が新しくなった直後からだ。
「99年の時点では、まだ父が社長兼店長で、だんだんと仕事を任されるようになりました。でも、こういう店でありなさい、といった方針のようなものを伝えられたことは一度もありません。私が代表取締役になったのは2017年ですが、2000年代後半くらいからは実質的に私が店の運営をしていました」
客の大半が地域住民という“街の本屋”が、一躍注目を集めることになる出来事があった。それは2008年に行われた「本屋プロレス」というイベントだ。プロレス団体DDT代表の高木三四郎さんの新刊著書『俺たち文化系プロレス DDT』(太田書店)のイベントを兼ねて行ったもので、伊野尾さんが子どもの頃からのプロレスファンということが、版元の営業経由で編集者に伝わり、「お店でプロレスをやれないか?」と相談を受け、イベントの開催がトントン拍子に決まった。
店は到底プロレスができるような広さではないが、本屋のエプロンを身に着けたプロレスラー2人が店内で熱い戦いを繰り広げた。店頭には約300人ものプロレスファンが集まり、本も売れ、大いに盛り上がった。
「これ以来、『店でプロレスをやるくらいだから、こんなことはできますか?』と、いろんなイベントの相談が来るようになりました」
その一つが、2010年に開催された「本屋野宿&トークショー」だ。野宿愛好家・かとうちあきさんの著書『野宿入門』の新刊イベントで、夜に店頭でノンフィクション作家の高野秀行さんとのトークショーを行った後、シャッターが閉まった店の前で、かとうさんと高野さん、参加者有志が寝袋に入って一晩を過ごした。
「お客さんがよろこんでくれそうで、かつ私が面白いと思ったら、やってみることにしています」
店でおすすめの本を紹介するフェアを行ったり、SNSで発信をはじめたりしたのもこの頃からだ。面白いと思った本を集めて面陳し、フェア台を作った理由はとても明快で、「本が売れない」から。
「2000年代後半でも既に本屋は斜陽で、せめて本好きの人に来てもらわないと先がなさすぎると思いました。本好きの人は雑誌などよりも書籍を読む比重が高いので、書籍の品揃えを充実させて大事に売っていく方向を定めました。お店に来るお客さんは、関心がある分野の本しか目にしてくれないことが多いので、関心外のものを手にとってもらうにはどうしたらいいか、と考えてフェアをしています。それは今も変わりません」
「中井文庫」と銘打ったフェアは、定番企画の一つ。同店スタッフや地元・中井で働く人、伊野尾さんとつながりのある作家や編集者、プロレスラーやアーティストなど、さまざまな選者が薦める本を集めている。
「年1回のペースで開催してきましたが、ちょっと飽きてきたところもあって、去年は中断しました。過去にも中断した時があって、その時は、いろんな出版社の人に、『本当は売れるはずだったのに売れなかった本を教えてください』とお願いして、教えてもらった本を集めたフェアを開催しました。これは反響が大きかったのですが、『著者が見た時に申し訳が立たない』という理由などから、結構断られもしましたけど」
これらのユニークなフェアはSNSでも告知され、客が地元以外から来店するきっかけになっている。また、面白いことをやっていることが出版社や作家、他の書店員などにも少しずつ伝わり、人脈の広がりにも一役買った。最近では、出版社や著者などの方から、フェアやイベントを持ちかけられることも少なくない。
「SNSを始める前からフェアやイベントはやっていましたが、SNSで地域外にも届きやすくなったというのはあると思います。でも、お店に足を運んでくれるお客さんは生活圏内の人が大半ですし、出版関係者とのつながりも、誰かの紹介がほとんどです」
伊野尾書店のXでの投稿を見ていると、フェアやイベントの告知や、おすすめ書籍の紹介に混じって、伊野尾さんが好きなプロレスに関する投稿もちらほらある。店の宣伝アカウントではあるものの、宣伝だけでは味気なく、かといって個人的な投稿が多いのもちょっと違うと伊野尾さんは感じている。
「店の宣伝になればと思ってやっていますが、そのバランスが難しい。プロレスと本は切り分けるべきじゃないかと思ったこともありましたが、途中から、あえて逆に混ぜることにしました。すべての投稿を享受している人はほぼいないはずで、誰にとっても異物になるようなものを混在させる方がいいんじゃないかと思ったからです」
インターネットやSNSの発展により、人は自分の関心領域に関する情報をピンポイントで集めやすくなったが、一方で、その領域から外れたものに触れる機会は極端に減った。かつて、雑誌を読んでいると、目当ての記事以外の見出しが目に留まり、興味を引き付けられることはよくあった。しかし、インターネットの検索結果に、キーワードとは全く関係ない情報は上がってくることはない。
「最近は雑誌が機能しなくなってしまったので、自分がさまざまな投稿をすることで、それをやっているところはあります」
伊野尾さんがこの店で働くようになってから25年が過ぎたが、もともと雑誌や書籍は利益率が低く、街の本屋をとりまく環境はますます厳しくなっている。それでも伊野尾さんは、シンプルに本は面白いものだと思っており、それを仕事で扱えることのよろこびを感じているという。
「街の本屋が減り続けて、店を続けているだけで感謝されるフェーズに入っているかもしれません。いっそのこと、もっと残り続けて残存利益を得たいですね。というのは冗談ですが(笑)。お客さんとのコミュニケーションは楽しいし、自分が勧めた本を買ってくれたり、『面白かったよ』と言ってもらえたりしたらうれしい。それってCMみたいだけど、お金で買えない価値なんですよね」
そんな伊野尾さんに、おすすめの本を挙げてもらった。最初に紹介してくれたのは、「西武線沿線住民必読」というPOPが添えられた『堤康次郎-西武グループと20世紀日本の開発事業』(中公新書)だ。西武グループを一代で築いた堤康次郎の生涯と経営手法を、膨大な資料から読み解いた一冊だ。
「西武の創業者である堤康次郎氏は、軽井沢や箱根を観光地として開発し、別々の鉄道会社がバラバラに開発した路線をつなぎ、何もない田舎を通勤圏にしていきました。いま、当たり前のように存在しているこれらの場所は、堤氏のような誰かが作り、広げていった結果。この本を読んで、中井で生まれ育った自分は、この人の脳内で描いていた世界に自分が生きているんだな、ということに改めて気付かされました、まさに西武線沿線住民必読の書です」
次は角田光代さんの新作小説『方舟を燃やす』(新潮社)だ。1967年から2022年までの昭和から令和の現代を舞台に、ある少年と主婦の人生を通して、「信じること」の危うさを描いた物語だ。
「ドラマ『不適切にもほどがある!』でも描かれたように、かつては当たり前だった価値観が、今では眉をひそめられるものになっているといったことはたくさんあります。その時々の価値観に準じて生きてきた人は、それを変えることは、自分を否定することにもなるのですごく難しい。そして、自分で選択してきたつもりが、実は信じたいものを信じてきただけかもしれない。そういったことを巧みに描いていて、すごい小説だと思いました」
『虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督』(集英社)は、ノンフィクション好きの伊野尾さんがぐいぐい引き込まれた一冊。1955年、プロ野球経験ゼロの還暦を過ぎたおじいさんが、突然、タイガースの一軍監督に大抜擢され、わずか半年後にクビになったという出来事がある。この監督、岸一郎とは何者で、どこから現れ、どこへ消えていったのかを丹念に追っている。
「阪神は経営陣による現場介入や、監督と選手間の抗争などといった“お家騒動”が何かと話題になりますが、遡るとこの岸一郎の騒動になるのではないか、ということが記されています。関係者がほぼ亡くなっている中、彼の人生を解き明かす過程がすごく面白いし、結局この老人が何者だったのか、という評価をフェアな視点で書いているのもいい」
『電通マンぼろぼろ日記』(フォレスト出版)は、30年間にわたって広告会社の最前線で働いた著者が経験した、笑いや悲哀、怒りの記録。広告最大手の内幕をリアルに描いている。
「ベストセラーの日記シリーズ最新刊がこれ。80〜00年代は、広告代理店が本当に力を持っていて、お金は使い放題。自分たちが世の中を作っているといった錯覚を持っていてもおかしくないな、ということが実感できました。とにかく、すごく面白かったです!」
同店で長く売れているのが、『具体と抽象 ―世界が変わって見える知性のしくみ』(dZERO)をはじめとした、ビジネスコンサルタント・細谷功さんの関連図書だ。手作りのPOPが目印となっている。
「この本が発売された2014年なのですが、それよりも後に売れているらしいよ、と聞いて読んでみました。そしたら発見が多くて、これはいいなと思って店で展開することにしました。この本は、漫画を交えて、具体と抽象の概念をわかりやすく解説。このPOPにある『自動車の座席』と『年末に配るカレンダー』の共通点も、その答えがこの本に記されているので、気になる人は手に取ってみて」
伊野尾さん最新おすすめ本は、『喫茶 行動と人格』(竹書房)だ。4月末に発売されたばかりの、田房永子さんの最新作。ちょっと奇妙な名前の喫茶店を舞台に、店内で起こった他客の会話について、これまた奇妙な従業員と常連客が議論を繰り返すというマンガだ。
「ある人が問題行動や言動で責められている時は、“その人が取った行動”と“その人自身の人格”への攻撃がごっちゃになりがち。それを切り分けて考えましょう、ということを読み解くストーリー展開なのですが、発見や学びが多くて、しかも面白い。読んでいて、カウンセリングに近いなと思いました」
今でこそ、さまざまなおすすめ本を紹介している伊野尾さんだが、実は子どもの頃は漫画ばかりでほとんど本を読まず、愛読書は「週刊プロレス」だったという。そんな伊野尾さんが本の面白さに気づいたのは、東野圭吾さんの小説だった。
「高校3年の時に彼の小説を読んで、なんて面白いんだろう! と思いました。あれは本との大きな出合いでした。それまでは何を読んでいいかわからず、とりあえず太宰治とか読んでみたりしました。主人公がすごく悩んでいるけどよくわからないし、文章も難解。面白いと思えなかったから、ますます本を読まなくなりました。でも、東野圭吾の小説を読んだ時に、自分はたまたま、本とマッチングしていなかっただけだったんだと気づいたんです。人々の興味が狭くなっている今、その外に知らない世界があることを提示できる場でありたいと思っています」