一人の女性が生き延びるための物語――『ベル・ジャー』刊行記念、山崎まどか特別寄稿
記事:晶文社
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一九五二年、スミス大学の優等生だったシルヴィア・プラスは、雑誌『マドモアゼル』が公募する小説のコンテストで賞を取り、翌年の夏に大学生エディターとしてニューヨークに招かれた。彼女は他の選ばれた若い女性たちと、女性専用の贅沢な居住型ホテルとして有名なバルビゾンホテル(作品ではアマゾンホテル)に泊まり、一ヶ月間特別待遇の見習いスタッフとして様々な経験を積むのだ。
『ベル・ジャー』はシルヴィア・プラスが自ら命を断つ前に、この『マドモアゼル』での経験とそれに続くうつ病と自殺未遂、精神科病院での過酷な日々をもとに書き上げた唯一の長編小説だ。
本作におけるヒロインのエスターのつまずきと絶望がどんなに大きなものだったか知るために、『マドモアゼル』が毎年発行していたこの大学生エディターたちの編集号のインパクトの大きさを説明しておきたい。
編集長ベッツィ・タルボット・ブラックウェルが辣腕を振るう『マドモアゼル』は当時、唯一と言っていい若い女性向きのファッション雑誌だった。雑誌がターゲットとしていたのは、ヨーロッパ旅行や文化に憧れるような知的な十代〜二十代の女性たちだ。アメリカで急速に数を増していた女子大生たちは特に重要な読者層で、彼女たちの生の声を聞くために雑誌は大学生特派員を募集していた。そしてその中から毎年、雑誌内コンテストなどで二十名ほどの特派員を選出して、ニューヨークに招いたのである。彼女たちが誌面づくりに携わった「大学号」は全米の女子大生たちの羨望を集めて、毎年、飛ぶように売れた。
大学生エディターの多くはこの経験を輝かしい青春の思い出と捉えていたが、シルヴィア・プラスのような野心的な女性たちにとっては違う。これは未来を左右するような大きなチャンスだった。
『マドモアゼル』は文化的で洗練された若い女性のライフスタイルを推奨していたが、六月号はいつも結婚特集で、これはある一定の年齢となった読者たちの“卒業”号として扱われていた。どんなに大学で学び、多方面に対する知的好奇心や感性を育てても、女性たちの行き着く先は結婚生活。『マドモアゼル』は読者の未来を描けなかった。
でも、特別に優秀な者なら違う。ニューヨークで『マドモアゼル』に携わっている女性編集者たちのように、自由に通じる抜け穴があるはずだ。『ベル・ジャー』のエスターも、現実のシルヴィア・プラスもうきっとそう信じたに違いない。しかし、彼女の小さなプライドはあっけなく粉々にされて、自分の小ささを思い知らされることになる。大学生エディターとしての失敗や、苦い経験の数々は、本当になりたい自分になるためのたった一度の機会をふいにしたという思いとなって彼女にのしかかる。ニューヨークのような大都会にふさわしくないという烙印を押されたような気持ち。
エスター/シルヴィア・プラスは五十年代の若い女性らしく、常にプレッシャーに苦しめられていた。周囲から求められる完璧な女性像からはみ出すことなく、かつそこを抜け出して特別な人間になりたいという強い思いに突き動かされてもいた。その相反する気持ちにニューヨークでの屈辱が加わった。これ以上の軋轢に耐えるのは無理だった。
実際には、『マドモアゼル』の大学生エディターに選出されて苦い思いを味わったのはシルヴィアだけではなかった。大学生エディター制度はシルヴィア以降も作家のジョーン・ディディオンや女優のアリ・マッグローといった才能を輩出しているが、有名無名にかかわらず、多くの若い女性たちが洗練された都会と厳しいプロフェッショナルの世界を見せつけられて、夢見た未来へのチケットを手に入れられなかったという挫折感でいっぱいのまま地元に帰っていった。
後に『ニューヨーク・タイムズ』誌の名編集者として名を知られるようになるメアリー・カントウェルが『マドモアゼル』の編集部に入ったのは一九五三年。最初の仕事は、シルヴィア・プラスの自殺未遂を報じる記事のスクラップだった。シルヴィアはどういう女性だったかと上司に聞くと、彼女はこう答えたという。「他の娘と何も変わらない。必死だった」
しかし、普遍的とも言えるその女性たちの経験を、生涯の唯一無二の体験として克明に書き得たのはシルヴィア・プラスただ一人だった。彼女が、そして『ベル・ジャー』が特別な存在である何よりの証拠である。
シルヴィア・プラスが人生で一番辛い時期に、最も悲しかった夏を思い起こしてこの小説を書き上げたという事実は興味深い。『ベル・ジャー』は女性の危うい心理を扱った作品のはずなのに、裏返しのように生命力を感じさせる。身が引き裂かれるような思いをした出来事の隅々まで書き尽くし、自分の糧にしようという作者の姿が見える。
傷ついた彼女を、世間の考えるノーマルな状態に戻そうとする周囲への怒り。決められたルールに従い、人生の本質を理解しようとしない人々に対する軽蔑。打ちのめされているときでさえ、十九歳の少女としての主人公の反骨精神がぱちぱちと炎のようにはぜている。彼女の心理を語る言葉は驚くほど率直で、それ故に詩的でもある。
エスターの心臓は彼女に訴える。
「わたしは、わたしは、わたしは。(I am, I am, I am)」
『ベル・ジャー』は自死をテーマにした話ではなく、生き延びるための物語なのだ。今に至るまで、この小説が若い女性にとってバイブル的な存在となっているのも、きっとそこに鍵があるに違いない。
もう一度生き返るために、エスターは、そして彼女を描く作者は、とことんまで自分を追いつめる。劇中でエスターは薬を飲んで自殺を図るが、スキーの事故や、ホテルの屋上から服を投げ捨てる場面など、文中では転落と死のイメージを結びつけた箇所が多いのが印象的である。そこには五十年代的ないい娘から逸脱と、夢見ていた未来からの脱落の両方が見て取れる。高みから自分を突き落とすのもエスターなら、なすすべもなく落ちていくのもエスターだ。『ベル・ジャー』の読者は両方の視点から、彼女の転落を追体験する。マンハッタンのアスファルトに激突し、全身が砕けるような人生最悪の瞬間までも。
だけど絶望の果てに、復活の予感がある。この物語を通過した人しか持ちえない、小さな光を感じる。