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世界で500万部突破『ぼく自身のノオト』約40年ぶりに復刊 BOT管理人が語る〈奇蹟〉と訳者・北山修

記事:創元社

こんな奇蹟のような復刊があり得るのか

 このたび創元社から復刊された『ぼく自身のノオト』は、原題を『NOTES TO MYSELF』という。訳者の北山修(注1)によれば、原著は1970年に米国の小さな出版社から特に大きな宣伝もなく刊行され、「数年の間に百万部を売りつくし」たそうである。以降今日まで『NOTES TO MYSELF』は途切れなく版を重ねており、全世界で実に500万部に達するベストセラーになっている。Amazonのレビューからはいまもなお若い読者を獲得していることが見て取れ、『ライ麦畑でつかまえて』のような「新しい古典」になっているともいえそうだ。

 日本での初版は1979年、版元は京都の老舗出版社・人文書院である。残念ながらこちらはよく売れたという話は聞かない。欧米で評価の高い書籍が日本ではあまり振るわない、というのはよくある話ではある。しかしさほど売れもせず、大きな話題にもならないまま絶版になった(であろう)翻訳書が、40年あまりの時を経て別の出版社から復刊されるのはかなり珍しい。わたしも出版業界で馬齢を重ねて久しいが、類する話はほとんど耳にしたことがない。

 依然として出口の見えぬ出版大不況下にあってこれはひとつの快挙である。いや、快挙どころか、端的に「奇蹟」といってもいい。喜ばしく、また誇らしく思うのは、わたしもまたこの奇蹟に期せずして関与していたことであるが、これについては後述するとして、しばらくは駄弁におつきあいを願いたい。

【注1】今回の創元社版では「きたやまおさむ」とひらがな表記されているが、本稿では人文書院版『ぼく自身のノオト』で用いられた「北山修」で統一させていただく。

北山修を追いかけて出会った『ぼく自身のノオト』

 なぜわたしが『ぼく自身のノオトBOT』を立ち上げたか、といえば話は簡単で、訳者である北山修のファンだったからである。

 北山修との出会いは、小学校の4年生だか5年生だったか、こっそり忍び込んだ父の書斎で見つけたエッセイ集『戦争を知らない子供たち』である。なんとなくタイトルに惹かれるものがあってわたしはそれを手に取った。そしていくらも読み進めないうちに、小学生の浅い理解なりにも確信した。「これはとても面白いものだ」と。

 『NOTES TO MYSELF』は、“MY STRUGGLE TO BECOME A PERSON”という副題(注2)からも窺えるように、ヒュー・プレイサーという無名米国人青年の思索と懊悩の記録であるが、『戦争を知らない子供たち』もまた24歳の医学生であった北山修が、時代の大きなうねりに翻弄されながらも自己を見つめ、自己を確立していこうとするSTRUGGLE(苦闘)の記録だった。わたしにはそれが、信じるに足るもの、非常な価値を蔵するものであるように思えた。以降わたしは、きわめて貪欲に「北山修」を渉猟していくことになる。

 余談だが、このとき世間は「軽薄と悪ふざけの」1980年代に突入して数年が経っていた。北山修はそんな風潮への反発を表明するかのように(注3)音楽活動・芸能活動をほぼ取りやめ、アカデミズムに専念するようになっていた。つまりは「コンテンツがほとんど供給されなくなっていた」のだ。また当時はクリックひとつで有用な情報が取り出せる時代ではなかったから、「北山修を渉猟」といってもそれはまったく容易ならざることだった。

 北山修が新しい本を出したと聞き、喜んで取り寄せたら難解な医学書だったり、東京医科歯科大学の学園祭で講演すると知って勇んで出かけたはいいものの、医学者が医学生を対象に行なう講演だったのでほとんど理解できずに終わったり――(注4)。『ぼく自身のノオト』はこうした、北山修を追いかけるMY STRUGGLEの過程で当然のように入手したものである。

 高校生になるとさすがに「北山修熱」も多少は冷めた。その後は進学やら就職やらといった大ごとがいろいろあって、今日までわたしは十たびあまりも居を変えた。そしてその都度、蔵書を含む大量の私物を棄てた。だが、本書『ぼく自身のノオト』だけは、常にわたしについてきた。理由はよくわからない。かつて耽読した本であることは確かだが、愛読書というほどのことはなく、座右の書ではさらにない。いまや本棚の隅で埃をかぶるがままにしていて、月に一度くらい気まぐれにぱらりと開いて2、3のフレーズを目で追うだけ(注5)という、淡きこと水のごとき交わりを続けているに過ぎないのだが…、

 …と、こう書いて、しかしそういう読みかたを数十年にもわたって途切れなく続けていること自体、もうとんでもなく強い思い入れに依るものであることに気づいた。上段ではつい「愛読書というほどのことはなく」などと記してしまったが、否、『ぼく自身のノオト』はまぎれもなくわたしの愛読書なのだ。そこに記された数々の詞(ことば)は、わたしのどこか奥深いところでしっかりと血肉となっているに違いなく、ここでこんな雑文を草していることだって十代前半のうちに『ぼく自身のノオト』に淫していたことと無縁ではないだろう。

【注2】意訳すれば「ぼくがぼくであろうとするための試行錯誤の記録」とでもなるだろうか。これは人文書院版でも、また今回の創元社版でも訳出されていない。
【注3】これはもちろんわたしの印象批評である。
【注4】北山修自身も、講演会場の最前列中央に年端もいかぬ中学生がいて、自分を注視していたことに面喰らったのではないだろうか。
【注5】そういう読みかたこそがふさわしいように本書は(原著も)設計されている。

『ぼく自身のノオト』の詞(ことば)でこころが走り出した

 わたしなりに『ぼく自身のノオト』の魅力の源泉をひとつ指摘しておこう。それは自分のこころのなかにわだかまっている名状しがたい感情や思考、焦燥などに、見事なまでに的確で、そして美しい詞(ことば)の形が与えられている点だ。

 わたしは初めて本書を読んだときに、詞(ことば)の寸鉄がぐさりぐさりと中学二年生のこころに――、当時はまだ「中二病」というやまいは発見されてはいなかったが――、突き刺さってくるのを感じた。「突き刺さって」といってもそれは「痛」いわけではもちろんなく、ひたすらに「痛」快だった。そうそう、そうなんだよ。よくぞいってくれた、俺もそういうふうに思ってたんだよ。それは、平たい言葉でいえば「共感」だったと思う。あるいは、自分は孤独ではないという「確信」、そしてこうしたことからもたらされる「安堵」といったものでもあっただろう。

 むろんこれはわたしの一方的な思い込み、妄想の類に過ぎない。だが妄想であれなんであれ、こころのアカウンタビリティを担ってくれるものを持っておくのは存外に大切なことではないか。このあたりの処理がうまくできないと、特にティーンエイジャーなんかは「大人はわかってくれない」とか「行儀よく真面目なんてできやしなかった」とか絶望して、夜の校舎の窓ガラスを壊して回ったりするのだ(注6)

 わたしには盗んだバイクはなかったが、駅前の丸善できちんと対価を払って購った『ぼく自身のノオト』があった。そこに記された数々の詞(ことば)によって、よるべない十代のこころを走り出させることはできた(むろん行き先はわからぬままだったが)。それはやはり人生における僥倖のひとつだったと実感するのである。

【注6】そういえば先に触れた東京医科歯科大学での講演で、北山修は「自分は尾崎豊のファンである」と語っていた記憶がある。

『ぼく自身のノオト』の詞(ことば)をだれかに繫ぎたかった

 本稿執筆の依頼を受けるにあたり、創元社の担当編集者は「なぜBOTを立ち上げようと思ったのか」と訊いてきた。わたしは返答に窮した。むろん、一義的には(既述のとおり)「北山修のファンだったから」ということになるのだが、だからといってそれはあえて『ぼく自身のノオト』を選択する理由にはならないのである。北山修には、『北山修青春詞歌集 ピエロの唄』(角川文庫)とか『きたやまおさむ百歌撰』(ヤマハミュージックメディア)とか、もっとBOTに好適な著作は他にもあるのだから(注7)

 だからわたしとしては「いや、ほんの気まぐれで始めたBOTですよ」と答えざるを得なかったのだが、こうしてつらつらと原稿を書きながらちまちまと考えるに、その気まぐれの奥の奥には、かつて自分が受け取った詞(ことば)を、もっといえば詞から受けた感銘を、別のだれかにリレーしたいという気持が確かにあった、と思い当たった。

 『ぼく自身のノオト』は、文字数の多い本ではない。だとしても一冊丸ごとのBOTをつくるのはそう簡単なことではない。誤字脱字がないかチェックしたり、文章の切れ目をどこにするか悩んだり、ルビの処理をどうするか考えたりと、やることは存外に多い。それでも最後までやり通すことができたのは、いつかだれかがこの詞に触れて、「共感」したり「確信」したり「安堵」してくれたらいいな、という思いがあったからだ。

 メッセージを書いた紙片をボトルに入れて海に流す遊びがある。いつかだれかがそれを拾い上げて連絡を寄越してくれるのを待つという、感傷的というにはあまりにも迂遠な手なぐさみだ。わたしはそんな感覚でBOTを立ち上げた。いまもわたしは一時間に一度、『ぼく自身のノオト』の詞(ことば)をBOTTLEならぬBOTに託して、インターネットの大海に投げているのである。するとときどき、リツイートや「いいね」がなされる。反応してくれたのはどこのだれで、どういう人であるかはよくわからない。だとしても、ああ、詞が届いたんだ、とは思う。それはなかなかに悪くない気分のするものだ。

【注7】詩歌の類はBOTと相性がいいようで、ツイッターには大量に存在する。

北山修の「ダサさ」が『ぼく自身のノオト』の名訳をもたらせた

 ところでわたしは先ほどから、「詞(ことば)」という表記を多用している。これはもちん意識的なもので、訳者の北山修は大きな商業的成功をおさめた作「詞」家でもあることに由来している。

 このたび創元社から復刊された『ぼく自身のノオト』には、コラムニストの山崎まどかが帯文を寄せていて、「北山修の名訳だ」と評している。わたしも名訳であることに異存はないのだが、しかし本当に名訳であるかどうか、確たることを述べるためには原文と比較してみる作業が必要だろう。

 物好きにもわたしは『NOTES TO MYSELF』のペーパーバックを、つまり原文も読んでいる。英語に堪能というわけでもないので話半分に聞いていただきたいが、『NOTES TO MYSELF』の原文は、少なくとも日本語母語話者にとってはなかなかに高踏的・衒学的で、「わかりにくい」英語で書かれている――、別のいいかたをすれば、受験英語とはかなりタイプの違った英文である。とりわけ関係代名詞の使いかたや名詞の選択に独特の個性があり、それがいっそう日本語母語話者の(受験英語ベースからの)読解を困難にしていると思う。

 一方で北山修は流行歌の作詞家として、なにを、どういう言葉で表現したら人の心に届けられるかということに関して人一倍自覚的だった(注8)。それゆえに、かどうかはわからないが北山修の歌はいずれもごく平易で、その歌詞世界には青空、雲、花、若さ、ふるさと、旅、涙といった親しみやすい――、ややもすれば(70年代初頭においてすら)陳腐といってもいいモチーフがしばしば取り上げられる。

 「平易」「陳腐」とは、ひとりわたしだけの印象ではない。加藤登紀子は、『北山修青春詞歌集 ピエロの唄』(角川文庫)に寄せた解説の中で、「(北山修の詞は)どこにでもあるような、〈安っぽい〉言葉で構成されている」と指摘したうえで、言葉が重い意味を持たないことを願っているように見える、と作詞家としての北山修を評している。わたしはこう理解する。加藤登紀子はその炯眼をもって「北山修はダサい」と喝破したのだ、と(注9)

 アカデミシャンとしての北山修を論ずる能力はわたしにはないが、「それ以外」の北山修については多少は語れる資格はあると自負するゆえ、担当編集者が蒼ざめることも承知でいおう。(広義の)エンターテイナーとしての北山修、マスを相手にするときの北山修は、おおむねダサイズムの衣をまとっていた、と。そう、北山修はダサいのだ。そしてこのダサさこそが『NOTES TO MYSELF』の翻訳にあたってはプラスに働いたのではないかとわたしは思う。

 先にわたしは原著について、高踏的・衒学的であると述べた。高踏的であるのも衒学的であるのも悪いことではないが、一面でそれは読者を冷徹に選ぶ・突き放すということでもある。この「高踏的・衒学的」の対極にあるのが、北山修のダサさだ。それこそが『NOTES TO MYSELF』の高踏志向、衒学趣味を剥ぎ取り、ひとりの米国人青年の思索や懊悩を等身大で訳出せしめた。なんとなればダサさとは親しみやすさ・わかりやすさであり、上段で述べたことを繰り返せば「人の心に届け」るための一手段でもあるからだ。

 想像するに北山修は、多分に意図的にダサさを選択して表現をしてきた。それは『NOTES TO MYSELF』と対峙するときも変わらなかった。だからこそ『ぼく自身のノオト』の名訳が生まれたのである。冒頭で「本書の復刊は奇蹟だ」という内容の記述をしたが、わたしには『NOTES TO MYSELF』と北山修の邂逅もまたひとつの奇蹟だったと思われてならない。

【注8】1980年代になってから出た『うい・あー・のっと・ざ・わーるど』『他人のままで』などの諸著作からも、北山修にそういう意識が強くあることは明らかである。
【注9】むろん加藤登紀子は、だから駄目だとか、価値がないとか述べているわけではない。むしろ、ダサいものが本来持っていた素敵さを取り戻した人こそ北山修ではないか、と好意的に評価している。

著作権侵害のBOTが元ネタとなった本について書き散らす「奇蹟」

 『ぼく自身のノオトBOT』について、最後にもう一度述べよう。BOTを立ち上げるとはいったいどういうことか。

 当BOTのように「元ネタ」があるものに関していえば、書籍等からフレーズを拾って、BOT用サーバーに転記していくということである。すなわちそれは、ここまでわざと韜晦し続けてきたが、主観的にも客観的にも著作権侵害行為そのものである。大きく売れたわけではないとか、約40年間にわたり絶版状態だったとかいった「幸運」ゆえに見逃されてきた(と思う)が、そもそも論をいえばわたしは北山修(と人文書院)が「おそれながら」と然るべき筋に訴え出れば確実に負け、相応の賠償責任を負う身なのだ。

 だから昨2020年の11月、『ぼく自身のノオト』が装いも新たに創元社から復刊されると知ったときには心底仰天した。わたしも、やくざな稼業なればこそこの業界の仁義は心得ているつもりだったので、「このBOTは消したほうがいいだろうか」とツイッター上で問うた。すると創元社の編集者は「消さなくてもかまわない」「BOTがあったからこそ復刊の背中を押してもらえた」といい(注10)、なんなら新刊の書影を提供する、献本もしようとまで申し出てきたのである。

 「ツイッター上で問う」とは「公開で問う」こととおおむね同義である。だからこの問いはすぐに(初版を出版した)人文書院の営業部アカウントの知るところとなった。驚くべきことに人文書院営業部は、わたしと編集者の一連のやりとりに「いいね」をつけた。そこに編集者はさらなる一撃を加えてきた。「BOTのことは北山先生のお耳にも達しています」。えっなにそれ? おれのこと怒ってないの? だれも?

 わたしがなにをいいたいのか、皆さんにはご理解いただけるだろうか。

 ここには多くの人の善意と寛容(と一人の著作権侵害)が綾をなしており、あたかもO.ヘンリーのよくできた掌編のごときおもむきをつくっている、といいたいのである。わたしは、これもまたひとつの奇蹟だと思う。だいたい、ただの著作権侵害BOTでしかなかったものが、元ネタとなった本について公的なメディアであれこれ書き散らすのも、絶後とまではいうまいがまず空前、それこそ奇蹟といっていいようなものではないか。

 本稿冒頭で述べたように、まず「復刊」という奇蹟があった。そしてこれまた既述のとおり北山修が訳すという奇蹟があり、さらに上段に記した奇蹟があった。これらの奇蹟は複雑にからみあいながら、現在進行形で新たな奇蹟を創出しようとさえしている。この長ったらしい雑文(注11)を(物好きにも)ここまでお読みの皆さんは、いままぎれもなく奇蹟の出現を目の当たりにしているのだ。皆さんに人の心があるならばこの奇蹟を、あたかもライ麦畑から転がり落ちてくる子どもを受け止めるかのように優しく、やわらかく着地させてやりたいと願うはずである。願うでしょ? 願うよな? 願え。

 そのためにはどうしたらいいのか。いうまでもない、いますぐ創元社版の『ぼく自身のノオト』をお買い上げになることである。そうさな、原著の「全世界500万部」とまでは望むまいが、その1/100くらいは売れてほしい。5万部がもたらす売上や印税は、上段で述べた善意の人たちにとってこの上ない賢者のおくりものになるはずだ。そしてこの5万人が本書に収められた詞(ことば)のいくつかをこころに引っかけて、たまに思い出しては「それを取りだしてしげしげとながめてみる」(注12)、そのときこの奇蹟は美しく完結するのである。本気でいってるぞおれは。

 人文書院版の『ぼく自身のノオト』は、鈍色の表紙カバーに履き古したスニーカーがコントラストも強く、そしてやや不安定な位置に描かれている(注13)。想像するにこれは、(定まらない自己の内面への)旅とか放浪とかいったものの暗喩なのだろう。わたしはこちらに馴染んでいるけれど、創元社版の新しい装幀ももちろん悪くない。

 気鋭のイラストレーター・中田いくみを起用した表紙は、ご覧のとおり少年の横顔である。人文書院版と比べてぐっと明るく、ポップになったことはだれもが認めるところだろう。だが、整理しきれないこころの裡を見つめるかのごとき索漠とした瞳や、暴れだしそうな感情を噛み殺すがごとく固く結んだ口もとの筆致のこまやかさを見よ。これを「ポップ」という言葉で片づけて理解した気になってはいけない。それは、まこと『NOTES TO MYSELF』『ぼく自身のノオト』の本質を象徴しているものなのだから。

【注10】つまりこここそ、わたしが「奇蹟に期せずして関与していた」ゆえんである。
【注11】わたしの第一稿は1万字を遥かに超え、仰天した編集者から大幅なカットを命じられた。その結果が本稿であることは是非とも明記しておきたい。
【注12】これは『ぼく自身のノオト』本文最後のページからの引用である。
【注13】クレジット表記はないが、この絵は北山修本人の筆によるもので間違いない。

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