翻訳で拡がる宇宙 柴田元幸氏が説く『世界文学の名作を「最短」で読む』の魅力
記事:筑摩書房
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画期的な本である。世界のさまざまな文学作品を選び出してサワリを引用し解説を施す、というスタイルに限っていえば類書はそれなりにあるだろう。が、以下に論じるような点で、ちょっとほかに類のない一冊だと思う。
まず、小説に偏らず詩や戯曲もたっぷり取り上げ、文学が黙って書き黙って読むだけでなく、歌い、語り、演じるものでもあることを実感させてくれる。著者ははるか時を超えてサッポーの官能的な声を蘇らせ、小泉セツの語る日本語がラフカディオ・ハーンの中で静かに英語に変容していくさまを思い描き、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズのきわめてシンプルな詩の向こうに詩人がそこへたどり着くまでの長い過程を感じとる。
全作品、引用は英語バージョンと日本語バージョンが並置されている。元の本が英語なら原文と、著者によるその邦訳ということになり、元が英語以外なら英訳とその邦訳ということになる。つまり、『古事記』であれば英訳と日本語原文ではなく、英訳と、著者によるその英訳の日本語訳が載っているのである。
これだけ聞くと、そのやり方に反発を覚える人がいるかもしれない。古事記や万葉集の「本物」を見せずに英訳を見せることにどういう意味があるのか、と。だが読んでみると、これが大いに納得できる。なぜなら著者は、翻訳によって何が失われるかではなく、何が拡がるかに目を向けているからだ。
たとえば、11世紀ペルシャの四行詩集『ルバイヤート』を論じるにあたって、この詩集を西洋に知らしめた19世紀の英訳とその邦訳を提示したのち、そのうちの一作が大伴旅人の歌と内容的に響きあうことを指摘してから、著者は矢野峰人による文語邦訳を挙げ、さらにはペルシャ語原文からの邦訳を挙げて、どれが正しいか/間違っているかをあげつらうのではなく、それらのズレ・ブレにむしろ作品の奥深さを見てとる。
「かくして、文学作品が物語る知恵は新訳や重訳が繰り返されることにより、時代や国境や文化を越えて生き延びる。歴代の翻訳に付随するブレやノイズはテクストの含意をより豊かにしていくのだ」(ちなみにこの一節、書評者にはきわめて有難く要領を得たまとめなので引用させてもらったが、まさに大変要領を得たまとめであるがゆえ、この本全体の印象を伝える上では少し不適かもしれない。概して著者の記述は、もっと個別的で、私的で、詩的であり、もっといい感じにもっさりしている)。
したがって、英語と日本語が並置されていることも、両者間の「まちがいさがし」を誘発するのではなく、両者の偏差の中に立体写真に似た効果を見てとるよう読者を誘っている。もっともその日本語訳自体、気取りがなくすんなり頭と心に入ってきて、見事である。「お勉強本」であろうとしている本ではないが、読者が英語と日本語を比較することによって、実は英語の、そして翻訳の、大変よい勉強になってしまうことは間違いない。
たとえばシルヴィア・プラスの詩の最後の3行、“The heart shuts, / The sea slides back, / The mirrors are sheeted.”が「心臓は閉鎖、/海は滑らかに退いて、/鏡という鏡に布が掛けられる」となる鮮やかさ。行がだんだん長くなるところも巧みに再現されている。英語原文・英訳を読まずについ邦訳から読みたくなってしまうのが、この本の唯一の問題点かもしれない。
それぞれの解説は、作品から人生の普遍的真理を抽出したり、時代背景を紹介したり、作品がどう読まれどう訳されてきたかをたどったりする。決してバランスよくあらすじが記してあって50冊を「読んだ気にさせる」たぐいの記述ではなく、むしろ、2ページで簡潔に終わっている続きを自分で書きたくなるような、読む側の想像力・妄想を搔き立てる書き方である。専門のアイルランド文学のみならず、世界の文学を体にしみ込ませてきた著者の中で長年熟成されてきた叡智が、毎ページ惜しげもなく披露されている。税込み1870円で、これだけの叡智を共有できるというのはものすごいお買い得である。