1. じんぶん堂TOP
  2. 歴史・社会
  3. ベーブ・ルースがはじめた「二刀流」 ビル・ブライソン著『アメリカを変えた夏 1927年』(伊藤真訳、白水社刊)

ベーブ・ルースがはじめた「二刀流」 ビル・ブライソン著『アメリカを変えた夏 1927年』(伊藤真訳、白水社刊)

記事:白水社

リンドバーグが飛び、アル・カポネが暗躍し、ベーブ・ルースが打つ! ビル・ブライソン著『アメリカを変えた夏 1927年』(伊藤真訳、白水社刊)は、「ひと夏」という小さな窓から激動の20世紀の胎動を展望し、情熱と楽天主義と悪徳に満ちた「大国」の姿を色彩豊かに活写する。ストーリーテラーの名手の真骨頂が楽しめる、1927年の「5カ月間の物語」。巻末解説は白岩英樹さん(高知県立大学准教授)。
リンドバーグが飛び、アル・カポネが暗躍し、ベーブ・ルースが打つ! ビル・ブライソン著『アメリカを変えた夏 1927年』(伊藤真訳、白水社刊)は、「ひと夏」という小さな窓から激動の20世紀の胎動を展望し、情熱と楽天主義と悪徳に満ちた「大国」の姿を色彩豊かに活写する。ストーリーテラーの名手の真骨頂が楽しめる、1927年の「5カ月間の物語」。巻末解説は白岩英樹さん(高知県立大学准教授)。

ビル・ブライソン[Bill Bryson、1951年─] ノンフィクション作家。言語や紀行、アウトドア、科学など幅広いテーマで数々のベストセラーを出している。Photo ©  Julian James
ビル・ブライソン[Bill Bryson、1951年─] ノンフィクション作家。言語や紀行、アウトドア、科学など幅広いテーマで数々のベストセラーを出している。Photo © Julian James

 

 ベーブ・ルースの時代、アメリカの暮らしの中で野球がいかに大きな存在だったか、そして文化的にも心情的にも、どれほど圧倒的にずば抜けて深く根づいていたか、今日の感覚ではなかなかつかみにくい。当時、野球は国民の喜びであり、熱狂の的だった。文字どおり「国民のスポーツ」だったのだ。スポーツに限って言えば、ほぼ1年中、大方のアメリカ人の頭の中を占めていたもの、それは野球だった。

American sports and athletics concept with american flag made up of baseball bats and balls where each bat replaces a white stripe and each ball replaces a star on paint background[original photo: Victor Moussa – stock.adobe.com]
American sports and athletics concept with american flag made up of baseball bats and balls where each bat replaces a white stripe and each ball replaces a star on paint background[original photo: Victor Moussa – stock.adobe.com]

 ワールド・シリーズのような大きなイベントとなれば、どの大都市でも新聞各社が社屋の前に巨大なスコアボードを設置し、例外なく大群衆を集めた。多くの都市では興行主が劇場や大型施設(たとえばマディソン・スクエア・ガーデンなど)を貸し切り、入場料を取って試合速報を提供した。その1つの方法では、野球場を図示した大きなパネルが用意され、ボール、ストライク、アウトのカウントを示す色電球をつけ、ヒットが出ればベルが鳴り、ベース間には白い足跡が表示されてランナーの動きがわかるようになっていた。遠いかなたの球場で展開している試合の模様は、通信機器が吐き出す紙テープで断片的に伝わってくるだけだったが、ステージ上のアナウンサーが(ときには巧みに尾ひれをつけて)実況していく。そしてスコアボードの電球が光り、ベルが鳴り響き、足跡が表示され、その語りを補うのだった。別のやり方では、ステージ上に野球場を再現し、少年たちが実際の選手の代役を務め、その場で動きを演じてみせた。はるか遠方の球場の試合運びに合わせて想像上のボールを投げ、打ち、捕球し、塁から塁へと走ったのだ。ある見物客が驚きを込めて証言したように、野球場のどんな大観衆にも増して「あちこちのホールを埋め尽くし、あるいは新聞社の前の歩道に詰めかけた何百万という人びとは、1つひとつのファインプレーに大歓声で応えた」。

怪力の天才長距離打者のベーブ・ルース(1921年)。のちに、あるチームメイトは言った──「いやあ、おれたちはあのうすらデカいクソ野郎が大好きだった。いつだっておれたちに喜びを与えてくれたんだ」。 GRANGER.COM/アフロ
怪力の天才長距離打者のベーブ・ルース(1921年)。のちに、あるチームメイトは言った──「いやあ、おれたちはあのうすらデカいクソ野郎が大好きだった。いつだっておれたちに喜びを与えてくれたんだ」。 GRANGER.COM/アフロ

 ベーブ・ルースが飛び込んだのはこうした幸福で興奮に満ちた世界だった。ルースがその後にバットで成し遂げた偉業を考えると、選手生活の最初の4分の1近くをピッチャーとして送ったのは特筆すべきことだ。しかもただのピッチャーではなく、野球史上最高の投手の1人だった。初めてレッドソックスでフルシーズン活躍した1915年、ルースの成績は18勝8敗。リーグ4位の勝率だった。奪った三振は112、1試合平均の被安打数はリーグ2位の少なさ、そして防御率2・44というきわめて優秀な成績でシーズンを終えた。翌年は23勝12敗。防御率、完封試合数、1試合平均の被安打の少なさ、そして対戦チームの打率の低さで、どれもリーグトップだった。勝ち数でリーグ3位、勝率と奪三振数で2位、そして完投試合数でも4位を記録。9試合の完封(つまり相手チームの得点をゼロに抑えた試合)は、今なお左腕投手の記録となっている。1917年にも投手のほぼすべての分野でトップまたは優秀な成績を収め、24勝13敗。偶然と言うべきだろうが、この間、ルースはワールド・シリーズで連続無失点を記録し始め、やがて29回3分の2の連続無失点記録を達成することになる。その後43年間破られなかった記録だ。

Babe Ruth pitching for the Boston Red Sox during a game between 1914 to 1919.[original photo: Frances P. Burke– PD-US-expired]
Babe Ruth pitching for the Boston Red Sox during a game between 1914 to 1919.[original photo: Frances P. Burke– PD-US-expired]

 これがいかに並外れたことか、どれだけ強調してもいいだろう。高校を出たての少年がのこのことメジャーリーグの球場にやって来て、タイ・カッブやシューレス・ジョー・ジャクソンといったベテランの強打者たちをきりきり舞いさせるなんてことはあり得ないことだった。どんなに優秀な選手でも、若手は自信を身に着け、ピッチャーとしてやっていける見通しが立つまでそれなりの時間を要するものだ。ウォルター・ジョンソンもメジャーで最初の3年間は32勝48敗だった。クリスティー・マシューソンも34勝37敗〔前者はワシントン・セネターズ、後者は主にニューヨーク・ジャイアンツで活躍した20世紀初頭の名投手〕。それに対してルースは同じく最初の3年間で43勝21敗。最終的に、ルースの投手としての成績は94勝46敗、(投手の能力を示す基本的な統計数値である)防御率はわずか2・28と、まったく目を見張る数字だ。勝率6割7分1厘は歴代7位だ。

Babe Ruth with the New York Yankees with "Shoeless" Joe Jackson of the Chicago White Sox look at one of Ruth's home run bats, circa 1920.[original photo: New York Daily News– PD-US-expired]
Babe Ruth with the New York Yankees with "Shoeless" Joe Jackson of the Chicago White Sox look at one of Ruth's home run bats, circa 1920.[original photo: New York Daily News– PD-US-expired]

 問題は(ルース以前には誰も直面したことのなかった問題だが)、ルースが比類なきバッターでもあったことだ。初めてフルシーズン戦った1915年には、92打数でホームランを4本放った。これはアメリカン・リーグのホームラン王となったブラッゴ・ロスより3本少ないだけだ。だがロスはルースの4倍の打数でこの数字だ。1918年からは、レッドソックスはルースの打撃力を活かすため、ピッチャーとして登板していない試合では一塁か外野を守らせた。この1918年のホームラン数はメジャーリーグ全体では史上最低の年だった。セネターズはこのシーズン、チーム全体でわずか4本。ブラウンズは5本、ホワイトソックスは8本、インディアンズは9本に留まった。そしてルースは1人で11本放った。翌年、ルースは(12試合の完投を含め)133回3分の1をピッチャーとして投げていながら、29本のホームランを放ち、1902年にフィラデルフィア・アスレチックスのソックス・セイボールドが作ったアメリカン・リーグ記録〔16本〕の倍近い数字を残した。外野を守った111試合では補殺アシスト26個を記録し、エラーはわずかに2つ。守備率9割9分6厘はリーグで断トツの1位だった。まさに目覚ましい活躍と言うべきだが、もちろん、まだほんの始まりにすぎなかった。

【ビル・ブライソン『アメリカを変えた夏 1927年』所収「6月 ザ・ベーブ」より】

 

 

【著者動画:Bill Bryson on One Summer: America 1927】

 

ビル・ブライソン『アメリカを変えた夏 1927年』(白水社)目次
ビル・ブライソン『アメリカを変えた夏 1927年』(白水社)目次

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ