西田幾多郎の「場所の論理」と真言密教
記事:春秋社

記事:春秋社
高神(引用者注―高神覚昇。智山大学で西田の指導を受け、後に智山大学教授に就任)は一九二四年一一月『仏教序説』を刊行した(序文は九月)。成仏について、次のように説明する。
本当の自己、本来の面目を見出すことによって、まさしく成仏するということと、阿弥陀仏の摂取不捨の本願力に乗托して、極楽浄土に往生するということと、一応は非常に異ったものの様に考えられるが、しかし仔細に考えてみると、これはつまり同一のものを異った方面より眺めたるものに外ならない。何故かというに聖道教はつまり自己において仏を見出すことであり、浄土教は仏に於て自己を見出すことである。結局両者ひとしく自己と仏とを同一世界に於て眺めんとするものにすぎない。今試みに図によってこれを示してみるとこうなると思う。(TKS9-268)
この図が、図1、2である(引用者注―トップ画像参照)。図2、聖道教の「自己において」の「於て」は自己を「中心として」仏を見出すという意味であろう。図1、浄土教の「仏に於て自己を見出す」の「於て」は西田の「場所」と同様である。西田は「『於てある場所』といふ如きもの」(NKZ4-218)とか「有るものは何かに於てあると考へざるを得ない」(NKZ4-225)と述べる。
西田が初めて「場所」を特別な意味で述べたのは、一九二四年一〇月一日発行の『哲学研究』第一〇三号(京都哲学会)一〇八頁、つまり次の箇所というのが通説である。
私は真の自覚は自分の中に於て自分を知るといふことであると思ふ。単に主と客と一と云へば、所謂反省以前の直観といふ如きものとも考へ得るであらう、自覚の意識の成立するには「自分に於て」といふことが附加せられねばならぬ。知る我と、知られる我と、我が我を知る場所とが一つであることが自覚である。(NKZ4-127)
同じ問題を追っていた西田と高神は、一九二四年九月頃ほぼ同時に、自己が「於て」ある何かについて、初めて言及したのである。
「場所」の着想を得て、西田は「我は我である」の問題に一定の解決を得た。まず「私が私であるといふ自覚は既に場所の意義を有する。私が私に於てあることを意味するのである」(NKZ5-62)と主張した。さらに一般化され、「個物的なるものが考へられるには、すべての個物を包み之を限定する一般者といふものがなければならない。私が超越的述語面とか場所とかいふのは、かゝるものを意味して居るのである」(NKZ5-421)と考えるようになった。「甲は甲である」は、周知のように「場所」の着想から、「述語となつて主語とならないものを考へ得る」(NKZ5-35)と展開された。
(『西田哲学の仏教と科学』「第一部 真言宗智山派と西田哲学」第三章 「場所」の論理と高神覚昇 pp.95-98より転載)