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いまこそ西田幾多郎が新しい: 日本の独創的哲学、即、世界哲学という意味

記事:春秋社

西田幾多郎 出典:Wikimedia Commons (public domain)
西田幾多郎 出典:Wikimedia Commons (public domain)

絶対矛盾的自己同一という謎

 私事で恐縮だが、私は西田幾多郎の代名詞ともいうべき「絶対矛盾的自己同一」という言葉を、なぜか中学生のころには知っていた。しかし、その意味を突きつめて考えることもなく、高校の倫理の授業でも西田に特に興味を持つことはなかった。教科書には載っていたから何か習ったはずだが何ひとつ覚えていない。

 この言葉と思わぬ再会を果たしたのは、ある学会を見学したときのことだった。ずいぶん昔のことだから記憶があいまいで、状況を正確に記述できないのだが、とにかく誰かが自由意志の問題について発表したのである。

 自由意志の問題を大ざっぱに説明すると、この宇宙の現象が因果的に決定されているなら、自由意志は存在しえないのではないかという問いである。たとえば脳は原子で構成されており、原子の動きは自然法則によって因果的に決定されている以上、脳の働きも因果的に決定され、したがって人間の意志も因果的に決定しているはずであるがゆえに、意志に自由の余地はないのではないかというわけだ。

 この問題の厄介なところは、たとえば量子論を持ちだして、宇宙の現象は決定論的なものではなく確率的なものだといっても、あいかわらず意志に自由の余地がないことだ。サイコロを振って1が出たらコーヒーを、6が出たら紅茶を飲むとして(1と6以外の場合は何も飲まない)、1が出てコーヒーを飲んだとしたら、それは私の自由意志だろうか。否である。偶然サイコロの目がそう出ただけであって、私の意志でコーヒーを選択したのではない。

 つまり、それが私の自由意志であるためには、私が選択し決定しなければならない。決定するのが自然法則による因果でも、確率でも、神の摂理でも、私の自由はないように思われる。それが問題なのである(この問題はたいへんおもしろいので、問題の概要についてはコニー+サイダー『形而上学レッスン』(春秋社)の当該の章の明快な解説を、問題に対するさまざまな実験や哲学説についてはミーリー『アメリカの大学生が自由意志と科学について語るようです』(春秋社)の楽しい会話調の説明を、ぜひ参照してほしい)。

 さて、くだんの発表者は、自由意志の問題をひととおりおさらいして、自然法則の因果や確率による科学的説明は自由意志と両立しないように見える、というところまで話を進めた。どのような解決策を提唱するのか、と私は固唾を呑んだ。すると発表者は、「これは絶対矛盾的自己同一なのです」と言ったのだった。

 「えっ?」私は困惑した。われわれは自分の意志で物事を自由に決定できると思っている。それが因果的に決定されているとすれば、自由に決定できないということだから矛盾である。それはわかる。だが、それを「絶対矛盾的自己同一」ということで何らかの解決につながるのか、そこがどうにもわからなかった。

 こんな経験のある私にとって、黒崎宏氏の本書『「西田哲学」演習』は待望の一冊である。私を混乱させるばかりであった「絶対矛盾的自己同一」が、本書の中心的課題として、はじめから終わりまで登場し、角度を変えて説明されていく。しかも自由意志の問題に示唆を与える内容にも満ちているのだ。

ウィトゲンシュタイン研究の泰斗・黒崎宏氏

 本書の編者・黒崎宏氏は、何よりもまずウィトゲンシュタイン研究の大家として知られる。学生時代に軽い気持ちで令名高いウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』や『哲学探究』を読んで衝撃を受けたのはいいが、どう理解すればいいのかさっぱりわからず途方に暮れたという経験を持つ人は多いだろう。そんな人々にとって確かな理解の手がかりを与えてくれた書物のひとつは、まちがいなく氏の往年の名著『ウィトゲンシュタインの生涯と哲学』(勁草書房、1980年)であったはずだ。

 しかし黒崎氏の関心は西洋哲学にとどまらず東洋の思想や宗教にも及び、『ウィトゲンシュタインと禅』『ウィトゲンシュタインから道元へ――私説『正法眼蔵』』『ウィトゲンシュタインから龍樹へ――私説『中論』』などの著作をものしている。考えてみれば、西田幾多郎も熱心に参禅した時期があり、曹洞宗の開祖・道元にも著作でたびたび言及するほど通暁しているのだから、黒崎氏の幅広い学識は、西田哲学の探究にあたって、たいへんな強みになるだろうことがわかる。

西田自身の言葉が語る西田哲学

 黒崎氏は、本書『「西田哲学」演習』において、西田哲学を西田の言葉によって語らせるという方針をとる。つまり本書は基本的に、西田幾多郎の思想が円熟した中期の論考からの抜粋を集めたアンソロジーである。

 全体は「形而上学」と「認識論」の2部にわかれる。両者が哲学の中心課題であるというだけでなく、西田自身が書簡のなかで「小生の専門は純正哲学(Metaphysics)及認識論(Theory of knowledge, Erkenntnislehre)に御座候 倫理学は専門にあらず」(小坂国継『西田哲学の基層』岩波現代文庫より引用)と述べていることからも、まずそのふたつの探究を試みたのかもしれない。

 しかし西田の文章は難解であるうえに、その博覧強記もすさまじい。プラトン、アリストテレスといった古代ギリシアの哲学者、ライプニッツ、スピノザ、カント、シェリング、ヘーゲルといった近代哲学者が言及されるだけでなく、キリスト教神秘哲学者(擬)ディオニシオス・アレオパギテス、さらには禅、華厳、天台といった仏教諸宗派の概念も登場する。戦前の知識人とはこういうものかとの驚嘆するばかりだが、そこへ西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」「一般的限定」「行為的直観」「媒介者」「絶対無」といった独特な言葉の数々と、跳躍するような論理展開が加わるのだ。理解が容易でないのは当然である。

 そこで黒崎氏は、西田の言葉のあいだに、意味を理解しやすくなるよう補足を挿入し、あるいは、引用の前後に註釈を施すことで、読者に西田の言葉から直接その思想をくみとるようにうながす。本文の一部を引用してみよう。

Bが個物であるためには、両者を包む一般的なもの(一般者)がなくてはならぬ。Aが個物であるためには、Bと対立せねばならぬ。(Bが個物であるためには、Aと対立せねばならぬ。)(両者が)対立するには、(両者を)対立せしめる一般的なもの(一般者)がなくてはならぬ。一般的限定(一般者の働き)には個物的限定(個物の働き)がなくてはならず、個物的限定(個物の働き)には一般的限定(一般者の働き)がなくてはならぬ。個物と個物というものが成り立つには、何か一般的なもの(一般者M)の媒介によるのである。

 ()内は編者・黒崎氏の補足である。かなりていねいな補足が加えられて、文意がずいぶんとわかりやすくなっている。しかし、それでもなお西田哲学は難しい。そこで黒崎氏はみずからの西洋哲学や現代科学、仏教や禅の知識を動員して註釈を挟みこみ、さらなる理解へと読者を導く。黒崎氏が註釈で「絶対矛盾的自己同一」をどのように補足説明しているか、これも一部を引用してみよう。

一面において<昨日の私>と<今日の私>は、同じではない。心身ともに異なっているからである。しかし他面において両者は、「黒崎宏」という一個の固有名で指示される。その意味で両者は同一なのである。……同じではないが同じ存在なのである。その意味で両者は矛盾的存在なのである。……このように、一つのものを多面的に捉えて、一つに表すのが、西田哲学の特徴なのである。

 ここで黒崎氏は、仏教哲学者・龍樹を想起させる論理を用いている。そのほかにも「丸い四角」という一見矛盾した表現について、思考を二次元から三次元にひろげて円錐を考えさせ、あるいは、絵画のキュビズムや非ユークリッド幾何学、光が波でありかつ粒子でもあるという物理学の知見の例などをあげながら、論理と感覚の両面から「矛盾的自己同一」を体得させようとする。そのうえで、西田が実際にその言葉をどのように用いているか、西田自身の文章を用いて説明していくのである。

いまなお古びぬ西田哲学の先進性

 「『西田哲学』は、今日世界に通用する哲学として、なお依然として新しい」。黒崎氏は「はじめに」でそう書く。それを実証するように、本書の西田解釈は世界の哲学・思想――それが西洋哲学であれ、東洋思想であれ――を参照するかたちで紡がれていく。

 西田の認識論の代表的論考「行為的直観」では、ハイゼンベルクの不確定原理やハイデガーの「瞬視」が言及され、その共通性が明らかにされる。そのほか、西田のいう「個物」はハイデガーのいう「世界内存在」としての「現存在」と比定され、あるいは、「一般者と個物」といわれれば、「形相と質料」「普遍者と個体」といった対比を思い浮かべがちであるが、西田においてはそれのみならず、「世界や歴史(具体的一般者)と主体」の対比でもあることが示唆される。そして黒崎氏は、「(個物は)自ら自己を限定すると共に、他によって限定されるものでなければならない」という西田を、「現存在は、投企するという存在の仕方のうちへ被投されているのである」と述べるハイデガー、「私は当にそのように行為する」と言うウィトゲンシュタイン、「暗闇の中における跳躍」と言ったクリプキと引き比べ、西田哲学が現代哲学のどまんなかにあることを示そうとするのである。

 さらに本書においては、冒頭に触れた自由意志の問題についても、ひとつの可能性が示唆されているように思う。西田は「個物は一般者の(自己限定の)極限を超えたものである」と述べ、また「個物は、一般者に従うべくして無限に従わぬものなのである」とも言う。黒崎氏は「(歴史によって)作られた物(個物)は、同時に、(歴史を)作るもの、なのである」と説明し、これを「矛盾的自己同一」と見るが、なるほど、ここに、環境や社会や因果法則や確率に限定されながらも、なおそれに従わぬ主体の自由の根拠を求めることができるかもしれないのだ。

 やはり、いまなお西田哲学は新しい。そして本書は、西田哲学の新しさを西洋哲学や東洋思想との対比によって鮮やかに浮かびあがらせる、御年90を越えた老哲学者からのすばらしい贈り物なのである。

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