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西田幾多郎生誕150年に寄せて: ポストコロナ時代の哲学としての西田哲学

記事:明石書店

『福岡伸一、西田哲学を読む』と『西田幾多郎の実在論』
『福岡伸一、西田哲学を読む』と『西田幾多郎の実在論』

西田哲学の全体像(ビッグピクチャー):ピュシスの復興

 西田哲学とは、そもそも何を目指した哲学だったのか。『福岡伸一、西田哲学を読む』では、従来の解説書では見られなかった新解釈として、ロゴス対ピュシスという構図(補助線)を呈示し、西田哲学全体を「ピュシスの復興を目指したもの」だと解説する。

 ロゴスとピュシスについて、この本の著者、生物学者の福岡伸一氏は次のように書いている。

 ロゴスは、自然を切り分け、分節化し、分類し、そこに仮説やモデルやメカニズムを打ち立てようとする言葉の力、もしくは論理の力である。イデアやメタファーを作り出す力である。一方、ピュシスとは、切り分け、分節化し、分類される以前の、ありのままの、不合理で、重畳で、無駄が多く、混沌に充ち溢れ、あやういバランスの上にかろうじて成り立つ動的なものとしての自然である。(『福岡伸一、西田哲学を読む』p.290)

 そしてピュシスは、「隠れることを好み、ありのままの矛盾を内包するものとしての自然」であったのに、「ロゴスの力によって論理化されると同時に、その精妙さ、偶発性、一回性といった特性がことごとく捨象されていくことになる」と文章は続く。

 このロゴスの歩みこそ、哲学や近代科学が辿ってきた歩みと軌を一にするものであるが、こうした動きに対する一種のアンチテーゼとして西田哲学を評価することができるという。

 環境問題や原発事故、そして新型コロナウイルスをめぐる世界中の混乱を例に出すまでもなく、ソクラテス・プラトン以来、ロゴス的な思考に基づいて築かれてきたわれわれの文明は、今日いたるところでさまざまな歪みを生み、その限界もまた露わになってきている。西田幾多郎は、今からおよそ100年も前に、そうした文明を支えているはずの哲学や科学を根底から作り変えることを企図していたのである。

 西田の同僚であった朝永三十郎の子で物理学者の朝永振一郎に次のような言葉がある。「物理学の自然というのは自然をたわめた不自然な作りものだ。一度この作りものを通って、それからまた自然にもどるのが学問の本質そのものだろう。しかし、これでとらえられない面がものごとにはあるにちがいない」(『滞独日記』)。

 西田も、ロゴスによってたわめられた自然からありのままの自然(ピュシス)を救い出そうと考えたのである(同じことは動的平衡論の福岡氏にもあてはまる)。

 まずは曇りなき眼(まなこ)で世界を見てみようというのである。そうすれば、世界は、これまでとはまったく異なる姿として立ち現れてくる。現在の国内外の混迷する状況を眺めてみれば、「ピュシス復興」の意義は、薄れるどころかますます重みを増している。

西田幾多郎(1870-1945)。西田哲学と称される非常にユニークな哲学体系を築きあげた。
西田幾多郎(1870-1945)。西田哲学と称される非常にユニークな哲学体系を築きあげた。

自然とともに生きる

 福岡氏によれば、自然界に新しいウイルスが出現したとしても、それは進化の過程で不可避な事態であり、われわれはついにウイルスを撲滅することはできず、長い目で見れば結局はウイルスと共存していくしかない(朝日新聞2020年4月6日朝刊)。

 この「共存・共生」ということを考えるとき、ロゴス的に、ウイルスを一方的に悪あるいは敵と決めつけたり、それを操作し取り扱えるよう対象化したうえで全滅させたりするのではなく、それらウイルスもピュシスの一部として、ともにある・ともに生きるという姿勢が大切となる。

 ギリシア哲学研究の日下部吉信氏は、ロゴスによる対象化によっては、われわれは「永遠に生命を逸し続け」ることになり、決して生命やウイルス、自然の本質をとらえることはできないという(『ギリシア哲学30講』)。ここには現在の医療の限界も示されている。

 西田は、「物自身になって物を見る」ことを説く(この態度は西田により「(行為的)直観」とも呼ばれる)。それは、自然や生命を対象化・操作したりすることなく、一方的に敵対視することもなく、本当の意味で自然(ピュシス)とともにあるあり方をわれわれに指し示す哲学である。自然を尊重し、自然の声に耳を傾ける。このことは、近年、力を持った一部の者たちによって軽んじられがちな、存在そのものや生命の価値を、深く認めていくことにも通じているだろう。

 西田は本当の意味で実在に触れていた哲学者でした。実在に触れ、自然そのものと同化して(自然と矛盾的に自己同一して)自然を考え抜いた哲学者であったとも言えるかもしれません。決して人間を中心に人間にとって都合のいいように自然や生命を理解しようとしたりせず、常に自然や生命に対して謙虚さを忘れることがなかった。このことは京都学派の系譜にある今西[錦司]先生や福岡先生にも共通する態度でもあると思います。生命や自然に接する際のこうした態度も私たちは西田から学びたい部分ですね。(『福岡伸一、西田哲学を読む』p.280)

 西田哲学が、実在そのものを主題とし、人間を中心に据えた哲学ではない(脱人間中心主義)ことも、世界が人間中心に作られた哲学や科学、ひいては文明そのものの行き詰まりに直面するなかで、広く関心を持たれる理由の一つになっているのかもしれない。

 

蝶は種ごとに食草を限局することによって、「逆限定」的に棲み分けをしている。
蝶は種ごとに食草を限局することによって、「逆限定」的に棲み分けをしている。

分断を越えて

 各国の新型コロナウイルスへの対応・対策では、政治・経済を含むさまざまな分野で、ロゴス的な対処の限界というものが示されたように思われる。

 ある局面では、生命(存在)か経済かが激しく問われた。

 戦後の世界をある意味で強力に推し進めてきたとも言える経済成長至上主義(GDPの拡大のみをよしとする考え方)では、われわれの文明を動かしている原理そのものが、それに何の修正も加えないでは立ち行かなくなっていることが明らかになったとさえ言えるのではないだろうか。経済原理(ロゴス)からこぼれおちるものに目を向ける必要があるとき、西田哲学は大きな助けとなるに違いない。

 また、新型コロナウイルスへの対応においては、人びとのあいだに、差別や格差の拡大を助長するような、より強い分断を招くロゴス的な言動も数多く現われた。

 西田は、すべての事物(コト・モノ)を共通して貫く原理を追求し、実在(自然・生命)を成立させる原理としての「場所」概念に到達した。その「場所」では、主と客、自と他、私と汝など、ふつう相互に対立すると思われているものを根底において一つととらえる点で、西田哲学は、それら分断を乗り越える哲学としてのよりどころとなり得る考え方を含んでいる。

 池田善昭氏は、『西田幾多郎の実在論』の中で「現代のグローバリゼーションにおいても、それは人と人とを引き裂く「壁」の問題となっていまだに人々を苦しめています。今日の世界は、皮肉にもそのグローバル化の真っただ中で、至る所に「壁」が築かれようとしています」と現状を予言するかのように述べたあとで、たとえば私と汝について、次のように論じる。

 人と人との、或いは、私と汝との「間」の問題とは、「非連続の連続」のアポリアの中で、これまでわれわれが苦悩してきた課題でもありましたが、「物自身になって物を見る」を「包まれつつ包む」と言い換えてきたように、結局のところ、どうしても「宇宙意識」[注・真に思慮分別を絶した、主客合一の純粋経験の状態で得られる意識。「(絶対無の)場所」とほぼ同義]へと自覚を深化させねばならぬものでした。「我」にとって「汝」とは、外部世界の人間ではなく、絶対現在の自己限定として主客合一の純粋経験からして、あくまでも「宇宙意識」内に存在する内部対象者であるのです。(中略)その物となって物を見る立場からすれば、我は、汝を包みつつ汝の中へと包まれているのです。こうして、宇宙意識を相互に共有し合えば、本来、汝は、我に包まれつつ、我を包んでいたことになります。従って、両者の間は、既に消えています。 (『西田幾多郎の実在論』pp.38-39)       

 ロゴスによって人と人のあいだが「壁」となり失われ、それによって互いにさらに分け隔てられ、人間があいだのない単なる「人」に堕落してしまっているとしたら、われわれは、西田のいうように、もう一度人と人、自と他のあいだに目を向けつつ、根底においては一つであるものとして「壁」を消失させ、「人間」としてのピュシスを生きることに立ち返る必要がある。こうした意味でも、西田哲学はいま強く求められているのだ。

現在(いま)を大切に生きる

 新型コロナウイルスは、現在のような文明社会(高度な情報社会)にあってさえ、というよりむしろ、そうした文明社会ゆえにこそ、未来を予測することがいかに難しいかをわれわれに突きつけたとも言える。

 西田によれば、未来とは、現在に含まれるようなかたちで先回りすることはできても、それのみを現在から切り離して、その姿を考えることはできないものである(「過去未来が現在に同時存在的である」)。

 ロゴス的な思考は、すでに成し遂げられた事柄としての過去や絵に描いた餅のような未来像に固執するばかりで、ピュシス本来の姿から離れることにより、こういった予測不能の傾向をますます加速させている。

 西田哲学は、このとき私たちにできることは、過去や未来を含むものとしての現在(いま)を大切に生きることであると教える。ロゴス的思考では、どうしてもピュシスとしての現在はおろそかになってしまう。これはふだん忘れられがちな、いのちの「かけがえのなさ」をわれわれが再び感じとる・思い出すことにも通じているだろう。

 西田の「絶対現在」や「永遠の今」という表現において、この「今」や「現在」とは、「いのち」にとって絶対的な価値を有する、永遠に揺るぎない尊い一瞬と言えるわけですね。なぜなら、「現在」あるいは「今」をゆるがせにすれば、同時性としての過去も未来も永遠に無益なものに堕してしまうからです。一生を虚しく終わらせたくないのであれば、「現在」を過去・未来の同時性として生き抜く以外のあり方はあり得ないのです。(『福岡伸一、西田哲学を読む』p.228)

 過去や未来にとらわれることなく、足元にある現在を深く見つめつつ真剣に生きるならば、未来や過去も必ず豊かなものとなる。西田は、われわれにこう呼びかけている。

西田幾多郎の墓。没後75年となる西田の忌日、2020年6月7日に北鎌倉・東慶寺にて撮影。
西田幾多郎の墓。没後75年となる西田の忌日、2020年6月7日に北鎌倉・東慶寺にて撮影。

◇     ◇     ◇

 西田哲学は汲めども尽きせぬ魅力をたたえている。そしてそれは、今なお色褪せていない。というよりむしろ、世界や文明のあり方までもが根底から揺さぶられている今こそ、正面から向き合う価値のある哲学であるように思われる。

文:柴村登治(明石書店編集部)

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