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純粋経験から考え直す試み 西田幾多郎「善の研究」

大澤真幸が読む

 1911(明治44)年に出版された西田幾多郎の『善の研究』は、日本人によって書かれた最初の哲学書である。それ以前にも、西洋哲学の翻訳や紹介はなされてきた。しかし、西洋哲学からの刺激を、日本的・東洋的な知の伝統に反響させながら、自ら独自に思索し、固有の世界観を提示した日本語の書物としては、これを嚆矢(こうし)とする。自分で物を見て、考えている、と見なしうる哲学書が、初めて日本人によって書かれたのだ。
 本書のキー概念は「純粋経験」である。純粋経験とは、主観と客観が分化する以前の意識の統一状態のことだ。こんな感じである。波打ち際に立って水平線に沈む太陽をうっとりと眺める。この瞬間、こちらに見る主観が、あちらに海や太陽といった客体があるという意識はない。裸の自然の情景が喜びの感情を帯びてたち現れるだけだ。
 この純粋経験こそが真実(ほんものの実在)だとして、ここからすべてを、道徳や宗教を含むすべてを考え直す試み、これが『善の研究』である。
 本書で見いだされた「純粋経験」が、後の著作の中でさらに展開し、「無の場所」とか「行為的直観」といった西田固有の概念を生み出していく。「場所」とは現実がそれに対して与えられる「この私」のことである。現象が生ずる前提であって、それ自体は対象化されることがないので「無」とされる。行為的直観は、物への関わりには知的観想を超えた行為的側面があることを強調した概念である。
 西田の文章は超難解だが、そこには、真に納得するまで問いを究めようとする迫力がある。弟子の澤瀉久敬(おもだかひさゆき)はこんなエピソードを伝えている。ある日、西田は講義の途中で黙ってしまい、突然「わからん!」と言って、さっさと帰ってしまった。澤瀉たち学生はしばし愕然(がくぜん)としたが、「わからん」に感動して教室を出たという。
 ここで反省せざるをえない。われわれは、戦後の日本人は、西田の「わからん」を継承してきただろうか。(社会学者)=朝日新聞2017年12月17日掲載