「不確実性とともに生きる」ということーー問題解決“志向”の前に
記事:明石書店

記事:明石書店
「女性は共感を求め、男性は解決を求める。」?
この言葉に、心からムカついてきました。まず、①女性も解決に向けて話をするし、男性も共感を求める時はある、②というかまず、共感と解決は両立する、③それに、日常で起こる問題はすぐに解決できることだけではないという、言説の矛盾に対するバカバカしさも感じます。しかしそれ以上に、言説自体がミソジニー(女性に対する憎悪や嫌悪)に支えられているので、「(男性が)解決を求めることはレベルが高くて、(女性が)共感を求めることはレベルが低いと設定している」という根本的なところに憤りがあります。(共感というものへの軽視が男性の孤独死や犯罪率の高さにつながっているのは明らかだろうというのは、また別稿で)
そんななか、及川先生による本書の原稿を読んだ時、欲しかった議論はコレダ~!となりました。
本書は保育者の専門性を捉える術について論じたものです。そこで論点になっていることの1つが、“問題”という言葉の見直しです。皆さんは最近、職場やプライベートでどんな問題にぶつかりましたか? 本書の面白いところは、保育者の皆さんのいとなみに注目しながら、日常のなかで生まれる“問題”を大きく2つに分けるところにあります。本書は、「現場において保育者が対応を要すると判断する『問題(problem)』を、保育者が即座に対処し解決可能な『揉事(trouble)』と、保育者の手によって直接解決していくことが難しい『課題(issue)』の2つに分類」します。そして、保育者が日々の保育のなかで行っているのは、子どもたちとともに、“課題”を受け止めながら共同生活を充実・進展させていく「援助(assistance)」であるとしています。
さらに本書は、子どもとの生活というのは「予測が困難な不確実性を伴うもの」と指摘します。そのうえで、保育者の専門性は“揉事”への対処能力のみではなく、不確実な生活のなかで起こる“課題”に対する構え“実践的知恵”にも宿ることを指摘し、「保育者の専門性を『問題解決』のために使われるものとして矮小化してとらえることをやめ」て、実践的知恵の価値を探究していきます。
まず、“揉事”と“課題”を分けることって、大事。“揉事”が起こっているのに対処しないのはさらなる問題を生むし、“課題”が生まれているのに援助でなく対処をしようとするのも無理がある。ひとつの問題に“揉事”と“課題”のふたつの側面が伴うこともあるでしょう。しかも、保育は不確実性を伴うのが基本なので、いつ・どんな“問題”が生まれるかもわかりません。そしてそれは、保育に限らず、ひろく家族・友人・知人との関係から成る日常にもいえることではないでしょうか?
しかし世間にある問題解決“志向”(思考ではない)は、日常にあるこの不確実性を無視する傾向があるように思います。不確実な日々のなかで生成されるのは揉事ではなく課題であることも多く、課題はすぐに対処できるものではないからです。
でも、なぜ絶対にそこにあるものを無視できるのでしょうか? というか、たとえ無視したとしても、そこにある。なので、不確実性(およびそれを伴う生活)を無視することは、単にケアの軽視にしかならないのではないでしょうか? というか、ケアを軽視しているから不確実性を受容できないのでしょうか。
そして本書は、課題というものは「『受容』し共生していくもの」だと語ります。これは、世間がいう“女性の共感”という行為に含まれるものだと言い換えることができるのではないでしょうか? 共感という行為には受容がありますからね。
本稿の最初で、「解決を求めることはレベルが高くて、共感を求めることはレベルが低いと設定しているという根本的なところに憤り」があると書きました。なぜなら、不確実性の受容、課題に対する実践的知恵は、ケアの専門職である保育者にとって欠かせないほどの、大切なものなのです。
及川先生は、問題解決の枠組みから専門職を捉えることは、「専門職として社会のなかで認識されるまでに長い時間がかかった(そして未だにその専門性に対して十分な社会的理解を得ているとはいえない)保育の仕事」に有効であったとも認めています。しかし、それはつまり、実践的知恵の価値が軽視されてきたともいえるのではないでしょうか。実践的知恵にまつわる本書の内容は、多くの対人援助職・ケアワークの現場とつながるものでしょう。そして、ケアワーク従事者は女性が多い。そこに相関関係がないわけないと思うのは、私だけではないはずです。
そのようななかで、実践的知恵を捉えるための方法論を見出すための本書が刊行できたことは、担当編集としても嬉しく思います。
また、及川先生は本書のなかで、以下のような指摘をしています。
保育は特定の目的を持ってなされるいとなみである以上、大人の側には、その実践や子どものあり様をコントロールする(たしかな成果を得ようとする)欲望がつきまとう。しかし、コントロールの欲望に負け、子どもたちのいとなみを制御しようとした時、その実践の場は、「保育」から「訓練(トレーニング)」の場へと化してしまう。だからこそ保育者たちは、子とどもたちとともに保育を(暮らしを)つむいでいくという関係性を保つことで、「共同生活」としての特質を保障しつつ、日々の実践をいとなんでいくことが必要となる。
これを大人同士で考えてみると、大人の関係でどちらかがどちらかを“訓練”するというのはおかしな話ですが、よくよく考えてみると、それと似たようなことが起こってしまっている関係性もありませんか? その人の自立性・自律性を見ず、悩んでいる人にウエメセでアドバイスしたり、何かを指示したり。まずその回答が的を射ていないこともあるでしょうし、なにより、他者が直面している問題を、その問題に関係のない人が解決しようと何か指示を出す、解決できる、と思うのはおかしな話でもある。
現代は、日々起こる問題にすぐに“答え”“成果”“解決”などを求めます。しかし、問題解決志向は、少なくない時に機能しないというのは、肌感覚でわかる人も多いはずです。(もちろん、“揉事”の放置は無責任ですが)
本書は保育者と子どもたちの共同生活を分析したものですが、共同生活の価値、共感の価値、さらにいえば不確実性の価値を丁寧に追っており、“解決”や“成果”などに囚われた現代社会に批判的な人にも、肯定的な人にも、新たな視座を持ちこんでくれることと思います。
文:柳沢友加里(明石書店)