「保育の質」とは何か――「日本の現実」と「世界の変化」 小熊英二氏による『保育の質を考える』推薦文
記事:明石書店
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いろいろな意味で、考えさせられる本である。
この本には、保育に関する重要な現状報告や問題指摘、学術的視点や国際比較などがちりばめられている。私は門外漢だが、あえて整理するならば、ここで提起されている論点は大きく2つであると思う。1つは、ここ20年ほどの保育に関する制度変更と、それによって生じた保育現場の変質である。もう1つは、国際比較を含めた学術的な視点からの、「保育の質」とは何かという問いである。
まず前者の論点について、私なりに要約しよう。
2000年の制度改正で、保育所設置主体の制限が撤廃され、民間企業やNPOなどでも保育所の設置が可能になった。さらに2004年、いわゆる地方分権改革の一環として、公立保育所運営費が一般財源化され、それまで「国2分の1、都道府県4分の1、市町村4分の1」の負担割合だった補助制度が廃止された(本書第3部第2章)。
いきおい、財政難の市町村は、公立保育園の削減と私立保育園の増設に傾いた。待機児童問題の解消を「手柄」にしようとする政治動向ともあいまって、民間企業設立の保育所は増加した。“民間活用”によって、報告書上の「待機児童ゼロ」を達成した横浜市の方式が、評判を集めたりもした。
だがこのような保育の量的拡大は、弊害をも生んだ。その1つが保育士の低賃金であり、2020年公表の「川崎市保育労働実態調査」によれば、株式会社運営の保育所では保育士の過半数が年収250万円未満であるとされる(第3部第2章)。こうした低賃金と長時間労働は、定着率の低さとベテラン保育士の不足を生み、保育状況の悪化や死亡事故の発生を招く。1・2歳児の予期せぬ死亡事故の発生率は、「プロ」が預かっているはずの保育施設のほうが、全国平均よりも高い(第4部2)。
こうした事態の一因が、市区町村からの委託費の弾力運用である。2000年より前、保育所の設置主体が市区町村と社会福祉法人に限られていた時代は、市区町村からの委託費のうち8割は人件費に使うという使途制限があった(第1部第3章)。これが規制緩和されて、委託費を事業費や管理費に弾力的に転用する民間企業が増加した。人件費を抑えながら、委託費を流用してつぎつぎに新しい保育所を設置すれば、雪だるま式に委託費が増え、企業本部の管理費に転用できる金額も増える。名目的な保育所の供給は増えるが、保育士の待遇は改善されず、保育ニーズのない地域にまで保育所が建つミスマッチも発生した。
補足して私見を述べれば、2000年前後に保育所の設置主体としてNPOや民間企業も認められるようになったのは、介護保険の導入によって、介護施設の設置主体としてNPOや民間企業が認められるようになったのと軌を一にしている。それまで行政の「措置」だった保育や介護の支給が、受給者が施設を選択することが可能な「契約」に変わり、かつサービスの供給元が増えたことは、プラスの効果もあった。しかし、委託費が事業者に供給され、介護士への分配が事業者に任されてしまっている状況は、介護施設も同様である。
そして本書の第二の論点は、そもそも「保育の質」とは何かをめぐる学術的な問いである。ここには、国際比較の視点が加わる。
OECDによる2018年の国際比較調査によれば、日本の保育には特徴がある。まず日本の園長・所長と保育者は、児童の知育に関する諸スキル(「論理的思考力」「批判的思考力」「科学的概念の技能」など)の育成を重視するという回答率が顕著に低い。また「子供たちが互いに助け合うように促す」「子供たちが互いに励まし合うように促す」といった、向社会的行動育成についても、重視するという回答率が低い。日本で重視するという回答が多いのは、「保育者は子供の遊びに加わっているとき楽しそうにする」「子供の目線に合わせる」といった、情緒的発達を促す実践に関する項目である(第1部第1章)。
どうしてなのか。もともと旧厚生省が所管していた保育園が、教育機関ではなく、親が働くための託児施設だったという経緯もあろう。しかし日本と似たような制度だった他国でも、90年代以降には状況が変化した。
じつは1990年の「子どもの権利条約」の発効前後から、先進国の「保育」は、「教育的ケア」に変化してきている。スウェーデンは1996年、社会省が所管していた保育制度を、教育研究省に移管した。イギリスは1998年に、ノルウェーは2006年に、オーストラリアは2007年に、デンマークは2011年に、そしてニュージーランドはすでに80年代後半に、同様の改革を進めている(第2部第3章)。
ただしこれは、幼少時から英才教育をするのではない。そこで導入されたのは、保育所は親が仕事をするための施設ではなく、生涯学習の土台を築くための施設であるというコンセプトである。具体的には、「子どもが自分の意見を持つこと」「自信をつけること」「上手にコミュニケーションできること」「協力しあうこと」「好奇心を育み、学ぶ意欲を引き出すこと」などが重視される(第2部第3章)。
このような「非認知スキル」、すなわち「社会的・情動的な傾向」を幼少時から養うことは、3歳から英単語をいくつ知っているかといった断片的な知識のつめ込み以上に、生涯にわたって影響する。学齢期以前にこうした「生きる姿勢」を身に着ける教育を受けた子どもと、そうでない子どもを追跡調査した結果、その後の学業成績や収入などに有意な差があったという研究結果は、批判こそあれ広く受け入れられている(第1部第1章)。
しかし日本では、こうした転換が進んでいない。たしかに、厚労省が管轄する保育園と、文科省が管轄する幼稚園を統合して「こども園」とし、内閣府が統括するといった所管の調整は行われた。しかし、「保育」とは何か、「保育の質を高める」とはどういうことなのか、「早期教育」と「つめ込み教育」はどこが違うのかといった議論が、それほど広く共有されているとは言いがたい。日本で「保育の質」が問われるときは、保育士の配置数や園庭の広さ、子どもの情緒育成という点に議論が集まりがちである。
率直にいえば、このことは本書においても感じられる。本書には、ここ20年の日本における保育の状況を論じる章と、他国における「保育」の変化を論じた章が、それぞれ複数収められている。前者はジャーナリストや弁護士、保育関係者や行政担当者が執筆しており、後者は教育社会学などの研究者が執筆している。しかし両者の議論がかみ合っているかといえば、そういう印象をあまり受けなかった。両者が議論を交わす章があれば、本書の構成はより立体的になっただろうと思うと、惜しまれる点ではある。
もちろん、保育や行政の現場で苦闘している人々からすれば、「そもそも保育の質とは何か」といった議論は、悠長な話かもしれない。しかし、「保育」とは「非認知スキル」、すなわち「社会的・情動的な傾向」の育成なのだという位置づけは、保育を「専門職」として認知させることに役立つだろう。
OECDの2018年の調査では、日本の保育者は「社会的に高く評価されていると思う」という回答が顕著に低い(第1部第1章)。またOECD諸国のなかで、日本は学校教員と保育者の賃金格差が最大である(第2部第3章)。つまり日本では、「保育」は専門職であるという認知が確立されていないのだ。今後、日本で保育士の待遇を改善していくためには、保育が「(女なら)誰でもできる仕事」ではなく、「生きる姿勢」の基礎教育であること、それは「英才教育」や「しつけ」とは違う専門能力を必要とする職業なのだという認識を、広めていくことが有効な戦略になりうるだろう。
本書は、そうした歩みに向けての第一歩になりうるものである。保育関係者をこえて、多くの人々に読まれ、議論の契機となることを期待する。