「しんどい気持ち」を表現したい――『ヨイヨワネ』刊行記念 ヨシタケシンスケさんインタビュー③
記事:筑摩書房

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編集部 前回のお話の中で、自分の不安を言語化して外に出すことで救われることがある、とおっしゃっていました。そのときに表現を徹底的にみがいて、俳句的にあらわすことによろこびを感じている、ともおっしゃっていました。そのようなよろこびの感覚は、スケッチを始めた当初からあったのでしょうか? それとも、中年に至って更年期のしんどさと向き合ったことで、あらたに俳句的なよろこびの感覚が生まれてきたんでしょうか?
ヨシタケ もともとスケッチを始めたときはメモだったんですよね。「面白いことがあった。忘れないようにメモしておこう」「今のおばちゃんの座り方はあまりにもどうでもよくて、記録しとかないと自分でも忘れちゃうぐらいどうでもいいことなんだけど、そのどうでもよさに気づいた自分を取っておきたい」みたいな意図でスケッチを描いていました。最初は消えていくものを残しておきたいっていう、備忘録的な目的で始めたのですが、だんだんそれが変わっていきました。
ぼくはすごくネガティブで落ち込みやすい。その気質は昔から変わらないので、自分を勇気づけるために、ネガティブな思考に陥りそうなときに、「いや、考えようによっては世の中、面白いことがあるんじゃないか」「こういうふうに考えたら、ああいう何気ないことでも面白がれるじゃないか」と自分に言い聞かせつつ、スケッチを描いていたんです。
ところが、スケッチを続けているうちに、「もっと上手に描いて残したい」という欲が出てきた。「こう描いてみたけれど、ほかの正解があるんじゃないか」ということをさぐるようになった。長く続けたおかげで、上達への欲が出てきたんですよね。
それから、これは前回でもお話ししたことですが、絵と言葉にすると自分自身のしんどさを客観視できるので、一時的にでもそのしんどさから逃れられます。これが自分にとってはすごく役に立ちました。ぼくにとって必要なことになったんです。そういう意味では、ある時点でスイッチが切り替わったわけではなくて、メモを取るという行為の精度を上げたいという気持ちと、しんどい気持ちをうまく表現したいという二つの気持ちが同時並行的にありました。もしかしたら「ゆるい闘病記」なのかもしれません。
編集部 闘病しているという自覚があった?
ヨシタケ 「病」ではなく「個性」だととらえています。自分のややこしい部分との向き合い方を、自分で自主開発してきた歴史の記録といったらいいんでしょうか……。
編集部 絵本作家が絵本ではなくスケッチ集を出すことを、ヨシタケさんの中ではどのように位置づけている?
ヨシタケ 「表現」には二つの考え方があると思っています。ひとつは、他人に見られることを前提とした表現/制作。たとえば、映画を撮る、作曲をする、ライブをするなどなど、人に見せて初めてそれを表現と呼べるという考え方です。もうひとつは、他人に見られることを前提としていない表現/制作。たとえば、ペン売り場の試し書きコーナーに書かれた絵や文字のような、人に見せようと思って作っていないものや、個人的な日記のようなものや、誰かに見てもらいたいとは思っていないのに作られたものです。ヘンリー・ダーガー(1892-1973 半世紀以上もの間、誰に見せることもなく1万5000ページもの作品を独りで描き続けた)の絵のように、世の中に記録として残っちゃったものも含まれるでしょう。
後者を「表現」としてみとめるかどうかは議論が続いているんですが、ぼくは「表現」と呼んでいいと思っているし、それを面白がってもいいんじゃないかと考えています。そういう意味で言うと、作品としてきっちり整理される前の何かもやもやした状態のものを見るのが好きだし、ぼくなら誰かのスケッチ集を見たいなと思っている。「自分が見たいと思うジャンルの本を自分で作ってみたい」──。シンプルですが、これがスケッチ集を作る理由のひとつです。
それから、二つめの理由としては、絵本の制約があげられます。絵本を描くときには、やっぱりどうしてもポジティブなイメージが求められる。わかりやすさだったり、希望につながるものだったり、読んだ人を救うことが、絵本にはどうしても必要です。
そういう絵本の表現を続けていくと、「いや、作者のぼくは、そんなにポジティブなことばかり考えているわけじゃないんだけどね……」と言い訳したくなるんです(苦笑)。というか、自分が噓をつき続けているような気持ちになって、だんだんつらくなってくるんですよね。それどころか、本当は日々絶望しかしていないんです。それをわかってほしいとまでは言わないけれど、バランスを取りたいという思いがあります。
三つめの理由としては、トミー・アンゲラー(トミー・ウンゲラーという表記もあります)という絵本作家の存在でしょうか。アンゲラーは『月おとこ』『すてきな三にんぐみ』など名作絵本をたくさん描いているんですけど、そうした絵本とは別に、エロティックな素描集も出版している。『フォーニコン』という本で、この本には「未成年禁止」みたいなエロな絵が満載で、いやらしい装置みたいなものを描いた画集なんです。この本を見たときに、アンゲラーかっこいいなと思ったんですよ。
子どもにもわかりやすい物語と、子どもには絶対見せられない本を、ひとりの同じ人が表現していることに、ぼくはかっこよさを感じたんです。「ひとりの人間にはいろいろな面があるんだよ」ということを見せることが、表現の一つの本質のような気もしているんです。誰かを尊敬するときもあれば憎むときもあるわけで、人間の振れ幅をある割合で表現したいという欲望はあるんですよね。絵本的ではないスケッチ集『ヨイヨワネ』も、絵本作家・ヨシタケシンスケという同じひとりの人間の中から出てくるものであり、どう編集するかによってアウトプットはいろいろな形がありえる──。それが面白いと思うんですよ。
逆に、表現に振れ幅をもたせるのを避ける作家もいるでしょうし、一貫した表現を続けるかっこよさっていうのももちろんある。それはやはり表現の世界の懐の深さというか、やさしさというか、ひとりの人間がもつ多面性を作品にする人もいれば、そのことを自らに禁じる人もいる。表現の世界のやさしさが浮き彫りになるような気がしています。
表現の一つの形態だと思うんですよね。宮沢賢治が『注文の多い料理店』という童話集を出したときに、その序文にはつぎのようにありました。
…ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。宮沢賢治『注文の多い料理店』序文より
この一文を読んで、ぼくは宮沢賢治を好きになりました。つまり、ここで宮沢賢治は「この物語はぼくが本当にこうだとしか思えないことをそのまま書いたんです。読んでくれる人にとってはよくわかんない部分もあると思うけど、それは書いてるぼくにもよくわかんないんです」と言っていて、すごい正直でいいなと思ったんです。これって表現の本質のような気がするんですよ。作者が全部を説明できなきゃいけないわけじゃないし、説明できないからこそ、そういう表現をしてるわけであって。「ぼくにもよくわかんないんですよ、これ。でも、なんか面白くないですか?」っていう、文化の世界には昔からあるところだけれども、自分自身が実はわりとその対極にずっといたからこそ、説明できるものとできないものが混在している表現というものをもっと愛でていきたいですね。
(収録 2025年2月7日)