弱音の濃度があがったかもしれない――『ヨイヨワネ』刊行記念 ヨシタケシンスケさんインタビュー②
記事:筑摩書房

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編集部 ヨシタケさんは、スケッチ集をこれまで何冊か出されています。最初のスケッチ集は、デビュー作でもある『しかもフタが無い』(パルコ出版。現在は、ちくま文庫)ですよね。
ヨシタケ この本を出したのは30歳のとき。2003年に出版しました。
編集部 その後も何冊かスケッチ集を出され、最後に新作を出されたのが2011年の『そのうちプラン』。じつに14年ぶりとなるスケッチ集『ヨイヨワネ』を今回おまとめいただきました。このスケッチ集には『ヨイヨワネ』というタイトルがつけられています。タイトルに込めた思いは?
ヨシタケ 最近のスケッチは弱音が多いんです。弱音ばっかり描いている。そのうちの一枚に「良い弱音」と記されているスケッチがありました。一般的に、「弱音」ってネガティブなものとして考えられることが多いですよね。でも、弱音を吐き続けている本人が「これは良い弱音なんだ!」と言い切ったら面白いんじゃないかな、と。この「良い弱音」という言葉が自分の中で印象に残っていて、「こういうタイトルの本があったら、何だかわかんなくて面白いだろうな」と思ってタイトルにしました(笑)。
ぼくがこれまで出してきた本のほとんどは、タイトルがわかりやすいんです。「良い弱音」をカタカナで表記して『ヨイヨワネ』とすると、まるで呪文のようなニュアンスを帯びて、意味がわかりにくくていいタイトルだなと思って。こんなタイトルをつけられるぐらい勇気が欲しいものだなと思いながら、ずっと気になっていた言葉ですね。
編集部 「良い弱音」とはどのようなものなのでしょうか?
ヨシタケ 何をもって「良い弱音」とするかは、いまだにぼくもきちんと考えてはいないんです。「良い弱音って何?」というツッコミを入れたくなるようなタイトルがぼくは好きなので、何が良くて何が悪いのかは自分でもよくわからないし、別にそれを突き詰めたいとも実は思っていない。ただ、やっぱりこれは弱音としか言いようのないスケッチがたくさんあったときに、ただの弱音として見るよりも、「良い弱音である」という前提で見ると、また違った見え方がすると思うんですよね。「本人が良いと思っても周りがそう思わなかったらどうなるんだろう?」みたいな、一種の矛盾をはらんだ言葉遊びが面白いなと思ったんですよね。
だから、『ヨイヨワネ』の良さについては自分の中でもずっと保留になったまま。言葉の組み合わせと響きが気に入ってるだけなんですよ。ポエムの部類に入るというか、よくわかんないけど、よくないですかっていう(笑)。
編集部 「良い弱音」をどうとらえるかは、この本の読者にゆだねるということでしょうか?
ヨシタケ そもそもスケッチ集ですので、本書に載せたスケッチを描いた理由もさまざまです。さまざまな理由で描いたものに、一つの特定のメッセージを込めるわけにもいかないし、本来そのために作られたものではないところもある。
1冊目のスケッチ集『しかもフタが無い』もそうなんですけど、これまで出したスケッチ集のタイトルは「何も言ってない言葉」を選んでいるんですね。手がかりをわざと減らしてある。タイトルから何とでも受け取れるし、逆に、どのようにも受け取れないようにしたんです。そうしないとタイトルと内容に齟齬が出るというか、正しい表現にならないと思うんです。
ただ、今まで出してきたスケッチ集と比べると、『ヨイヨワネ』はやっぱり明らかに違う点があります。それは、自分でもびっくりするぐらい弱音の濃度が高かったということです(笑)。今までは、もうちょっといろいろなことに自分が興味を持てていたので、スケッチの対象も広範囲にわたっており、内容はあっちへ行ったりこっちへ行ったりしていたのですが、去年か一昨年あたりは、自分で自分のことが気の毒になるくらい弱音ばかり描いていた。弱音、弱音、どこを切っても弱音が出てくる。
そういう意味では、今回のスケッチ集にはテーマがある。「テーマのあるスケッチ集」というものを考えたことがなかったので、ちょっと面白いなと自分の中で妙に盛り上がってしまったんです。まあ、もともとポジティブなものなんか一個も描いてはいないわけなんですけれども。
編集部 しんどいことばかりを描いていたのはコロナ後でしょうか?
ヨシタケ そうです。弱音の濃度が上がった原因は、中年に至って更年期にさしかかったからだと思います。身体ががらっと変わった頃から、より悲観的になってきました(笑)。こういう変化が自分に生じたときに、それを面白がる以外に何もすることがなかった。
編集部 弱音を吐くことの効用はあるのでしょうか?
ヨシタケ 周囲の人が悲観的なことをぶつぶつ言っていたら、それを聞いているほうまで嫌な気分になりますけど、ぶつぶつ言っている本人としては、外に吐き出さざるを得ないという理由もあるはずなんです。
ぼく自身は、自分がしんどいときに、その状態を絵と言葉で正確に表現してみたいっていう、なぞの欲望もある。「今こういう顔してるよな」「こういうふうに眉間にしわ寄ってるよな」「今どういうポーズしているんだろう」とか考えながら描いている間は、しんどさからちょっと離れられるんです。自分の気持ちを言語化することで、自分を客観視できる。しんどい自分を他人事のように観察して、記録している。この時間が単純にちょっと楽なんですよね。
誰かに見てほしいわけではなく、自分の中で、「このしんどさを言葉にすると、3行で言うことができるけれど、それを1行にぐっと縮めると、この一言になるんじゃないか」「もっと短くして二文字の漢字であらわすと、これだ!」みたいな、もともと頼りのない絵と言葉に当てはめて、しんどい状態の再現度を高くすることによろこびを感じるんです。そういう意味では、俳句に近いのかもしれません。「そうそう、これだよ! こういうつらさなんだよ」という趣味的なよろこびに向き合っているので。
編集部 自分を救うためにスケッチを描いている?
ヨシタケ これといった趣味がないぼくにとって、しんどさを表現して記録に残すことが、自分自身を救う手立てになっているのは間違いなくあります。この仕組みには一般性があって、自分の中のもやもやを言語化し、「いま私はこういう状態なんだ」と整理することで、問題をクリアにできると昔からよくいわれてます。それと同じようなことを、ぼくは絵と言葉で、自分を救うためにずっとやっているんだと思うんですよね。
『ヨイヨワネ うつぶせ編』の「おわりに」にも書きましたとおり、不安や弱音を外に出すことは、ぼくにとっては効果があります。というか、生きるために必要な行為として、それこそリハビリとしてやっているので、やらざるを得ない。ただ、はたしてこれが他の人にもあてはまるのかどうかはわかりません。
繰り返しになりますが、ぼくにとってスケッチは「リハビリの記録」なのです。ただ、それを他人に見せていいのかどうか、迷いがないわけではありません。たとえば、大怪我を負った人が痛みをこらえて懸命にリハビリしているとします。その姿を見てどう思うのかを考えると……。なかなか難しいです。もしかするとぼくが描いていることは、それとそんなに変わらないのではないか、それを果たして他人に見せていいんだろうかと、ためらうこともある。と同時に、あえてそういうものを見せちゃおうと露悪趣味のような気持ちもあり、いろいろな気持ちが混ざっていますね。
(収録 2025年2月7日)