生きた台湾社会の実像に迫る 倉本知明『フォルモサ南方奇譚』(評者:菊池秀明)(前編)
記事:春秋社

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本書は近年日本で人気を博している台湾の歴史と文化について、メディアの紹介や研究書の多くが抱える「中央からのまなざし」にあらがい、その辺境に位置する南部地域(高雄市および屏東、恒春、台東各県など)の人々が語るさまざまな記憶を、17本の文学エッセイにして掘り起こした作品である。
台湾とは何だろうか? それはもう一つの中華世界であると共に、漢民族と原住民(オーストロネシア系の先住民族)、漢族の中の言語、移住時期の違いなど多様なバックグラウンドをもつ人々が作ってきた包容力のある社会である。そして日本人にとっては、南方情緒のエキゾチズムと「古き良き日本」へのノスタルジーを体感させる旧植民地と言えるかもしれない。
だがこうした日本人の台湾認識に著者の倉本知明さんは異を唱える。日本で語られる台湾とは、台北を中心にグローバルな活動を見せるエリートの視点から見た台湾であり、南部とくに台南以南の地方はしばしば魔術的な土地柄と見なされてきた。だが倉本さんはこの地域に深く入り込んだ「縦の旅行」をくりかえすことで、そこに生きる人々が語る物語に耳を傾けた。
そこで語られる歴史とは、台湾を大陸とは異なるもう一つの政治、文化的中心(中華民国・台湾)として語る大文字の政治史でもなければ、「日本統治時代はよかった。だから日本は台湾に良いことをしてあげた」と語る日本人にありがちな自己満足の物語でもない。むしろ支配者の交替という激動の歴史の中で、歴史の外側に沈殿してきた歴史を、いま人々の生活に息づき必要とされている「欠片」として示すことなのだという。
倉本さん自身の言葉を借りれば、そこで語られるのは「天朝(清朝――評者註)体制下における義民に逆賊、文明人を自任する西洋人の山師に「野蛮」な原住民の頭目、日本の人類学者に英国の博物学者、異神としての牛頭天王に瘟神としての王爺、そして帝国日本の支配に抵抗した「土匪」や共産主義者」など、歴史と奇譚のあいだにはまり込んでしまった「いま」であるという。それらは正しい歴史認識からは外れた「騙り」になってしまう危険を伴うが、倉本さんはそうした人々の記憶に向かい合うことこそ、本当の意味で台湾社会の深層と向き合う作業になるのだと主張する。それはいわゆるロスジェネ世代として、日本におけるグローバルかつ「正しい歴史」からはみ出し、それに抵抗し続けてきた倉本さんだからこそ可能な作業であるという。
さて本書を開くと、口絵の写真と共に強い印象を与えるのは「台湾南部」の地形図と民族分布図という二枚の地図である。それは台湾の南北を縦ではなく、東を上にして、北部地域を切り取った形で示されている。「なるほど、このように台湾を見ることもできるのか……」。かつて日本中世史家の網野善彦氏が、日本社会の多様性を示す著書の中で、日本海を下にした日本地図を提示したのとよく似たインパクトを受けた。
横になった台湾南部地図の場合、本来その下にあるのは泉州、漳州あるいはアモイといった大陸(福建省)の諸都市である。そこは福佬系の人々の出身地であったが、「六死三留一回頭(一度出かけたら六割は死に、三割は行ったまま、戻ってくるのは一割だけ)」という渡航の困難を前に、大陸へ戻ることもままならず生活を始めた羅漢脚(定職も家族もなく、一生をはだしのまま終える下層移民)の目からはこのように映るのだろうと納得させられた。
この羅漢脚については、本書の第1章「羅漢門の皇帝陛下」においても詳しく語られている。その中心人物は「台湾三大民変」のリーダーの一人である朱一貴で、彼が『水滸伝』に登場する英雄よろしく、羅漢脚たちの推戴を得て王を名乗る経緯が描かれる。ふつう台湾の民変リーダーで有名なのは中部出身の林爽文であるが、最初に朱一貴をとりあげたのは南台湾に注目した結果であり、台湾史を時代の流れに沿って紹介するに成功している。
倉本さんは台湾島に住む人々は羅漢脚のように、常に故郷と切り離された孤独な傷痕が針のように刺さっていると述べている。それは台湾文学とくに国民党と共に大陸から逃れてきた国府軍将兵とその家族たちを描いた「眷村」文学を専門としてきた倉本さんならではの指摘である。むろん朱一貴の時代にも故郷との連絡を失わなかった移民もいたが、時代が下るにつれて「自分の祖先が大陸のどこから来たのかわからない」と答える下層民が増えたのも事実で、人々がある種の欠落感を抱えていたことは間違いない。こうした点に注目できるのも「上からの」大文字の歴史に抗った本書の特徴と言えるだろう。
さて欠落感といえば、これを抱えている代表的な存在が客家と呼ばれる漢人のサブグループである。「遅れてきた人々」を意味する客家人は、後発移民のためマジョリティーである福佬系漢人からの差別を受け、条件の悪い山裾の地に定着したとされる。朱一貴の反乱が発生した時、彼らは自らを守るために団結して武装し、清朝支持の旗印を掲げて反乱軍や福佬系の村落を襲撃した。分類械闘と呼ばれる地域紛争の始まりである。
日清戦争終結後の1895年に日本が台湾を領有するために征服戦争(乙未戦争)を行った時、最後まで抵抗したのが鳳山県(現屏東県)の六堆と呼ばれる客家人の武装自治組織だった。その指導者だった鍾発春は日本軍人の「なぜ抵抗するのか」という問いに「清あるを知りて、日本あるを知らず」と答えたという。実のところ清朝は下関条約で彼らを見捨てたのであり、六堆の人々も清朝を熱烈に支持していた訳ではなかった。だが日本という新たな支配者を前に、自分たちを捨てた清朝の名前をかかげて地域の防衛を試みた(これを保台という)点に、客家ひいては台湾社会がかかえる欠落感がよく示されている。
(後編につづく)