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コンヴィツキの「渓谷」とワルシャワ——傑作長編小説『現代の夢解きの本』の魅力

記事:幻戯書房

『現代の夢解きの本』とコンヴィツキ。背景は、コンヴィツキの生地であるノヴァ・ヴィレイカ(ナウヨイ・ヴィルニャ)の光景
『現代の夢解きの本』とコンヴィツキ。背景は、コンヴィツキの生地であるノヴァ・ヴィレイカ(ナウヨイ・ヴィルニャ)の光景

タデウシュ・コンヴィツキ『現代の夢解きの本』
タデウシュ・コンヴィツキ『現代の夢解きの本』

場所の文学、文学の場所

 特定の「場所」を描き出すことにこだわった小説が好きだ。作者が作中に忍び込ませたその土地に関するさまざまな描写を紐解いていくうちに、やがて読者の心の中にその場所がいわば仮想の空間として立ち現れてくる。そんな小説を読んでいるとき、読書という行為はある種の心の中の「旅」のような様相を帯びてくる。

 だが、改めて考えてみると、なんらかの場所を、それがあたかも現実に存在しているかのような存在感と手触りを有したものとしてフィクション作品の中に登場させるというのはなかなか難しいことなのではないだろうか。きっと、ただ単に現実の場所に可能な限り忠実に描写をすればいいというものでもないのだろう。むしろ、作品の中で現実の地名が名指されてはいるけれども、作者がそれをあえて現実とは異なるふうに描写することで、独自の存在感と手触りを備えた小説空間が創造されることもある。そういう時はたいがい、現実の場所と作中の場所にズレが見られるところにこそ、作者の仕込んだなんらかの仕掛けが存在しているはずなので、そういう描写に気づくと思わずドキドキしてしまう。

 たとえば桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は打ちぬけない』(2004年)がそうだ。物語の舞台となる町は「境港市」であると作中ではっきりと明記されているのだが、実際に小説内の記述を読むと、どこをどう読んでも現実の境港とは一致しない。むしろ、境港の隣の市で、作者である桜庭一樹の出身地である米子市と多くの共通点が見出せるのだ。一体なぜ作者は自らの作品の舞台となる場所に関してこんなややこしい仕掛けを施したのか、実は私もずっと気になっていながらまだ答えが見出せていないのだが、どうもそこにこそこの作品の大きな核心が存在しているような、そんな気持ちをぬぐえないでいる。

コンヴィツキの「渓谷」

 このたび私が翻訳したタデウシュ・コンヴィツキ『現代の夢解きの本』(原著1963年)は、もちろん『砂糖菓子の弾丸は打ちぬけない』とは何もかもが全く違うタイプの小説ではあるが、こと場所の描き方という点においては少し似通ったところがあるかもしれない。少なくとも私にとってはどちらも、現実の場所と架空の場所・フィクション上の場所との関係性、あるいは人の心の中に抱かれたイメージとしての場所というものについて多くのことを考えさせてくれる作品なのだ。

 『現代の夢解きの本』の舞台となるのは、第二次世界大戦終結から十数年後のポーランドのどこかの田舎町である。作品の舞台のモデルとなった場所のヒントになるのはたとえば町のすぐ近くを流れる「ソワ川」という川の名前で、この川は実在の川なので、Google Mapを開いてソワ川沿いの町をしらみつぶしに探しでもしたら、この舞台となる町の条件に当てはまる町はいくつか見つかりそうなものである(これはこの作品を初めて読んだ時に実際に私が試みたことである)。ところが、実際にその方法でいくら探しても条件にあてはまる町は見つからないのだ。これについては『現代の夢解きの本』の「訳者解題」でも書いたので詳しくはそちらに譲るが、実はこの作中の川沿いの町のモデルとなっているのは当時のポーランドの実在の町ではなく、むしろ作者コンヴィツキの生まれ育ったヴィルノ(現在のリトアニア領ヴィリニュス)の郊外で、コンヴィツキが幼少期を過ごした町である「コロニャ・ヴィレンスカ」なのである。つまりコンヴィツキは自らの記憶の中に存在し、今や永遠に失われてしまった戦前のポーランド時代のヴィルノ郊外の風景を現代(1960年代)の現実のポーランドの地理に投影することで、奇妙な現実感とまるで夢の中のような浮遊感を兼ね備えた独自の作品空間を生み出したのである。

 タデウシュ・コンヴィツキは1926年、やはりヴィルノ郊外のノヴァ・ヴィレイカに生まれ、父親が亡くなると3歳の時に先述のコロニャ・ヴィレンスカに移り住んだ。このヴィルノ郊外の渓谷の町は、たとえば日本語訳もある『ぼくはだれだ』(1969年)やアンジェイ・ワイダによって映画化もされた『愛の記録』(1974年)など、他のコンヴィツキ作品においても頻繁に舞台になっているのだが、面白いことにコンヴィツキはこれらの作品の中で一度も「ヴィルノ」という固有名詞を使っていない。だからそこで描かれるのは、一方では明らかにコンヴィツキ自身の幼少期・青年時代の記憶が色濃く反映された場所、彼が幼少期を過ごしたコロニャ・ヴィレンスカに限りなく近い場所でありながら、同時に誰にとっても「故郷」でありうるような一種神話的な場所、集合的な夢の空間としての渓谷なのである。コンヴィツキの作品に描かれる渓谷の風景がなぜか読者にとっても奇妙に意義深い、特別なものとして感じられるのは、それが理由なのではないか。

コロニャ・ヴィレンスカ(リトアニア語名:パヴィルニース)の駅の写真(2023年)
作者:user: CD、CC BY-SA 4.0
コロニャ・ヴィレンスカ(リトアニア語名:パヴィルニース)の駅の写真(2023年) 作者:user: CD、CC BY-SA 4.0

コンヴィツキのワルシャワ

 ヴィルノ郊外の渓谷の町コロニャ・ヴィレンスカと並んで、もうひとつコンヴィツキの小説に頻出する場所が、ポーランドの首都ワルシャワである。たとえば『主の昇天』(1967年)という小説では、記憶を失った語り手の男がワルシャワとおぼしき都市の中を一晩彷徨する。実は語り手は頭に大きな穴が空いており、つまりどうやらすでに死んでいるらしいということがやがて明らかになるのだが、そんな語り手が置かれた不条理な状況と同じくらい不条理でグロテスクなのが、語り手がさまようワルシャワの街そのものである。たとえばあるシーンでは、語り手は自分に儲け話を持ちかけてきた謎の男・リレクに誘われ、ワルシャワ中央駅地下の線路に降り、そこにある秘密のトンネルの中に導かれる。なんのために作られたのかは「ただヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ(スターリン)のみご存知だ」というその謎のトンネルを進んでいくと、やがて語り手たちは社会主義ポーランドの首都ワルシャワの象徴であり「スターリンからの贈り物」とも称される「文化科学宮殿」の中へと辿り着くのである……。

 第二次世界大戦後のワルシャワ再建の際にソ連からポーランドへのプレゼントとして建てられたこの「文化科学宮殿」は、長らくソ連によるポーランド支配の象徴としてワルシャワ市民の憎しみを集めてきたが、同時にその地下に存在すると噂される秘密トンネルなど、多くの都市伝説の対象ともなってきた場所でもある。こうした文化科学宮殿という場所が帯びた独特の磁場やそれが掻き立てる民衆的想像力を、コンヴィツキは印象的なかたちで『主の昇天』の中に取り込んでいるのである。実はこの作品に限らず、コンヴィツキの作品には文化科学宮殿が作品の鍵となる重要なスポットとして頻繁に登場する。なかでも最も有名なのは、文化科学宮殿の前で焼身自殺することを反体制派のグループから要請された語り手が約束の20時までワルシャワ市内をさまよう『小黙示録』(冒頭のみ日本語訳あり)であろう。1979年に非合法の地下出版で発表され、当時の社会主義体制をラディカルに批判したこの作品は、コンヴィツキの全キャリア中最も有名な作品であると言えるだろう。

ワルシャワの「文化科学宮殿」(筆者撮影、2023年)
ワルシャワの「文化科学宮殿」(筆者撮影、2023年)

映画監督としてのコンヴィツキ

 実はコンヴィツキは、映画人としても有名だ。文学者として何本もの映画のシナリオを手がけているのみならず、なんと自らメガホンを取って映画監督までこなしているのだからその多才ぶりに驚かされる。映画業界プロパーではなく、正規の監督としての訓練を受けていないからこそ、コンヴィツキの作品には他のポーランドの監督の作品には見られないような独特の個性と独創性のひらめきが感じられる。

 何を隠そう、私がコンヴィツキの存在を初めて知ったのは、まさに映画を通じてだった。当初はアンジェイ・ワイダの映画に憧れてポーランドに留学し、手当たり次第にポーランド映画を渉猟する生活を送っていた私が、むしろワイダよりもよほど強い印象を受けたのが、実はコンヴィツキの一連の監督作品だったのだ。清冽な美しさと厳しさに満ちた処女作『夏の最後の日』(1958年)も素晴らしいし、純度100%のコンヴィツキ・ワールド全開ともいうべき『ここからどれだけ遠いか、近いか』(1972年)も捨てがたいのだが、なんといっても当時の私が最も感嘆したのが1965年の『サルト』という作品だ。アンジェイ・ワイダの歴史的名作『灰とダイヤモンド』(1958年)の主演俳優ズビグニェフ・ツィブルスキを主演に据えた本作は、それ自体が『灰とダイヤモンド』およびツィブルスキ自身のパロディとしても読める怪作であると同時に、実はその直前に執筆された『現代の夢解きの本』の自己批評とでも言うべき内容にもなっている。詳しくは映画そのものを見ていただくしかないのだが、はたして日本で見られる機会があるのかどうか。『サルト』に限らずコンヴィツキの映画は日本では不当とも言えるほど紹介に恵まれておらず、DVD化なども全くされていないのが、なんとも惜しいかぎりだ。

タデウシュ・コンヴィツキ『ボヒン』(1987年)の原書
タデウシュ・コンヴィツキ『ボヒン』(1987年)の原書

ワイダとコンヴィツキ、ふたりの生誕100周年

 冒頭に述べた通り、コンヴィツキは今年(2026年)に生誕100周年を迎えるが、もう一人やはり今年生誕100周年を迎えるポーランドの文化人として、あのアンジェイ・ワイダがいる。ワイダとコンヴィツキのかかわりについては先日あるところでお話をする機会があり、その内容はまた別途文章化するつもりもあるのでここでは割愛させていただくが、興味深いのがこの二人の「生誕100周年」に対するポーランドメディアや公的言説の反応である。ポーランドが誇る世界的映画監督であるワイダに関してはポーランドの国内外で様々な企画が催され、2026年はまさに「ワイダ・イヤー」の様相を呈しているが、それと比べるとコンヴィツキの扱いはずいぶん小さく、まるで「無視されている」と言ってもいいような状況のようだ。たとえばコンヴィツキの娘であるマリア・コンヴィツカは今年の3月、ワイダと比べて父の扱いがあまりに小さいことを嘆くコメントをSNSに投稿し、それがちょっとしたニュースになったほどである。

 考えてみれば、ワイダはいかにも顕彰向きの芸術家である。常にポーランド社会の中心的テーマ・問題関心を積極的に扱い、その時々の時代の空気をリードしてきたワイダは、まさに誰が見ても「国民的映画監督」という名にふさわしい存在だ。他方コンヴィツキという作家は、どこまでもそのような国民的顕彰を逃れるような存在であると言えるかもしれない。常にある種の「周縁」あるいは「よそ者」の視点に身を置きながら、その独特のひねくれた感性でポーランド社会を斜めに切り取ってきたのがコンヴィツキという作家・監督であった。私がワイダよりもむしろコンヴィツキのほうにより惹かれるのは、このあたりに理由があるのかもしれない。

「コンヴィツキ・イヤー」への誘い

 20世紀後半のポーランド文学史・映画史においてコンヴィツキが果たした役割は極めて大きい。映画は今見てもどれも傑作だし、小説もとにかく面白い。一番有名な『小黙示録』などのいわゆる「反体制文学」の系列の作品は、さすがに社会主義体制が過去のものになった今読むとやや古臭い印象を免れないかもしれないが、逆に本書『現代の夢解きの本』などは今読んでも全くその面白さを減じていないどころか、むしろ場所と記憶、トラウマなど、極めて現代的な切り口から論じることができるという意味でも、まさに再評価されてしかるべき作品なのではないだろうか。

 コンヴィツキ生誕100周年の今年、拙訳『現代の夢解きの本』を刊行することで、ささやかながら私にとっての「コンヴィツキ・イヤー」がお祝いできたことを本当に嬉しく思っている。このお祝いに自分もぜひ加わってみたいと思われた物好きな方がもしいらっしゃったなら、ぜひ拙訳『現代の夢解きの本』を手に取って、その一筋縄ではいかない「信頼できない語り」の魔術に思う存分浸ってみてほしい。私がこの小説を読んだ時の興奮を、日本の読者の皆さんと少しでも共有できれば、訳者としてこれ以上の喜びはない。

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