謙虚さを携えて、ともにデザインする――ポストヒューマニズムデザインへ向けて
記事:明石書店
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ロン・ワッカリー著『ポストヒューマニズムデザイン――私たちはデザインしているのか?』は、〈人間〉を中心に据えて発展してきたデザインを揺さぶり、人間と非人間とがともに〈中心〉を共有する新しいデザインを確立しようと試みる一冊である。本書の魅力はなにより、著者ロン・ワッカリーが、デザイン研究者としての立場から執筆していることにある。ポストヒューマニズムの議論は複雑で抽象的だが、彼は頑固なまでに意識的に自身や同僚らによる具体的な実践に根を下ろし、そうすることで本書を確かに現実世界と結びつけている。
「ポストヒューマン」という語は一般に、2つの相反する意味で認識されている。ひとつめは「アフターヒューマン」などとも呼ばれ、ロボットなどテクノロジーの力を借りて人間の認識や能力を拡張し、〈人間〉を超越しようとする立場のことである。本書の立場は、その逆だ。他種に比べて〈人間〉が例外的で特権的なのだ、という既存のヒューマニズム的な幻想を解体し、人間と非人間とが絡みあう謙虚な〈人間〉を提案しようとするのが、本書における「ポストヒューマニズム」なのである。
それゆえ、本書は〈人間〉の特権性を解体し、人間と非人間とを同列なものとしてみなそうとする。このことを理解するのは、私たちにとって必ずしも難しいことではない。例えば、旅行先で美しい風景を見て、写真を撮って友人に送るとしよう。このとき、写真を撮ろうと思うのは、手元にカメラの付いた携帯を持っているからだ。それを送ろうと思うのは、ネット環境が私たちのいるところに届いているからであり、写真を簡単に送ることのできるLINEやインスタグラムといったアプリに、私たちが慣れ親しんでいるからだ。そう考えてみると、実は私たちの行動どころか、私たちの意志(「写真を撮りたい、送りたい」)でさえ、私のうちからのみ発されたものだと言い切ることは難しい。私たちの意志や行為は、思ったより自律的なものでも意識的なものでもない。カメラやネットやアプリはこのとき、私たちを確かに揺さぶり、私たちの行為を共同構成しているのだ。ある行為、あるデザインとは、他者と深く相互接続して影響をもたらしあう、相互変容のプロセスなのである。このとき、確かに〈人間〉は特別ではない。人間は、さまざまな非人間たちと相互接続し絡みあう網の目のうちの、非人間と同様に並び立つ一人のアクターにすぎないのだ。
本書はしかし、「ポストヒューマニズム」の本ではなく、「デザイン」の本である。ヒューマニズムへの幻想を解体し、人間と非人間の絡みあいについて認識したとき、私たちはどのようにデザインに向き合っていけばよいのだろうか? そこでワッカリーが主張するのが、〈謙虚さ〉というモチーフである。
私たちは〈ともにデザイン designing-with〉している。それは希望でも倫理的な提案でもない。人間と非人間との深い絡みあいを認識すれば、私たちは存在論的に、ともにデザインしているのである。しかし私たちは、ともすればこのことを忘れ、傲慢で支配的なデザインに走ってしまうことがある(本書では「反経歴書」と名付けられている)。
例えば、本書で紹介される悪名高い「カムデンベンチ」はそのひとつの卓抜した事例である。これはイギリスのカムデン地区に設置されたもので、中心市街地で起こる反社会的行為や犯罪行為を防ぐためにデザインされている。ベンチには起伏があり、ホームレスがベンチの上で寝ることを防ぐ。また、表面の角度が途中で変化しているため、ベンチを使ったスケートボードも難しい。そしてなにより、このベンチは大きく重たいため、クレーンなどでしか動かすことができない。カムデンベンチのデザインは、デザイナーの傲慢さが鋭く表出した事例のひとつだ。このベンチは、ホームレスやスケートボーダーを排除する機能を、デザイナーの力をもって、支配的に屹立させようとする。それは、他用途への転用を不可能にし、他者からの介入、つまり他者との相互変容を否定するものだ。つまり、カムデンベンチはまさに〈ともにデザイン〉することの真逆を行くものなのだ。
こうした事例を観察してみれば、ポストヒューマニズムデザインの目指す〈ともにデザインする〉のかたちが少しずつ見えてくるだろう。それはデザイナーの特権性や、何かを支配できる、自由に変化させられるという幻想を手放し、コントロール不可能で不可逆的な絡みあいのほうへと自らを投げこむことを意味する。それは、さまざまな、想像もしえない他者との相互接続のなかで、自らを起源として動き出したデザイン、あるいは自分自身が、変容していくことを受けいれることだ。
ワッカリーは言う。「ともにデザインすることは、謙虚でいることだ」。それはワッカリーによれば、非人間の「隣にいる」ようなことである。ダーウィンが土に自らの身を投じてミミズを観察したように、非人間の隣に寝転がって、ともにデザインする過程へと自らを委ねていくことである。しかし、それは必ずしも、難しいことでも特別なことでもないだろう。解説で上平崇仁氏が明らかにしているように、それはキッチンで展開されるカレーづくりのような、日常のうちの広がりに目を向けていくことに似ている。
日々の暮らしのなかでひしめき蠢いているものたちに向きあうとき。それを支配したり、自由にしたりできるという幻想を手放すとき。そのとき私たちは、ワッカリーの提案するポストヒューマニズムデザインへの第一歩を踏み出していると言えるのではないか。