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プロパガンダは民主主義を自壊させるか——ジャック・エリュール『プロパガンダ』を読む

記事:春秋社

ジャック・エリュール『プロパガンダ』(春秋社)とその原著(Economica)
ジャック・エリュール『プロパガンダ』(春秋社)とその原著(Economica)

 本書『プロパガンダ』は1962年が初版だから今から半世紀以上も前に書かれた本である。550ページを超える厚さだから、手にとって開くのには勇気がいるという人もいるかもしれない。そういう人のために若干の紹介を試みるのが、この文章のねらいである。

 著者であるジャック・エリュールは技術社会批判で知られており、かなり前に邦訳も出されている(『技術社会』上下、すぐ書房、1975・76年)。本書『プロパガンダ』についても、メディア論の研究者からつとに古典的著作として言及されてきた。その意味では待望の邦訳といえる。

 評者は20世紀フランス哲学の専門家ではないし、文明批評に精通しているわけでもないから、エリュールの人と業績について包括的に記すことは手にあまるし、またその任でもない。以下ではごく簡単に彼の伝記的概要について触れたのち、本書『プロパガンダ』について、しかもその全体ではなく、評者の視点で興味を惹かれた部分を中心にみていくことにしよう。

エリュールの生涯

 著者のジャック・エリュールは1912年生まれ。日本でいえば明治から大正に元号が変わる年に、フランスのボルドーという町でうまれた。家は貧しかったが、両親の薦めもあってボルドー大学で法学を勉強し、1936年に博士号を得て、モンペリエ大学、ついでストラスブール大学で教え始めた。

 ローマ法の研究と並行して、青年期からエリュールが傾注したのが、マルクスとプロテスタンティズムだった。この組み合わせを不思議に感じる人もいるかもしれない。唯物論哲学に慣れた人は、宗教を目の敵にするのではないかというわけだ。エリュールの場合、マルクスへの関心はその社会分析にとどまり、信仰の問題は別個に考えられた。エリュールはプロテスタント知識人として、生涯を通じて神学と社会学の両方でたくさんの業績を残したが、根底的な研究動機はもちろん両者で共通しているとはいえ、表面的には別個の二つの領域としてそれぞれ検討された。

 1930年代後半のヨーロッパは、戦争の足音が近づく不穏な時代だった。1933年に成立したナチス・ドイツは軍国主義と拡張政策をほぼ公然と喧伝していた。当時のエリュールはボルドーで友人のベルナール・シャルボノーとともに「人格主義」と呼ばれる哲学運動を展開しており、同じく人格主義を掲げてパリで活動していたアレクサンドル・マルクやエマニュエル・ムーニエらとも連携していた。のちの技術社会論やプロパガンダ論に繫がる議論は、この時期に萌芽が形成されたものである。

 1940年以降、ドイツ軍による北フランスの占領がはじまって以降、エリュールは教職を辞してボルドー近隣で農耕をいとなみつつ、ヴィシー政権下の非占領地域にユダヤ人を逃がす活動を続けた。戦後から1980年まではボルドー大学で教え、退職後もボルドーを拠点に著述活動を続けた。1994年没。

プロパガンダの特徴と類型

 エリュールの議論は、文明批評や社会評論の域を超え、具体的な出来事から出発しつつも単なる時論にはとどまらず、根元的な水準まで抽象的に理論化していくのが特徴である。もちろん実証的な研究者からは異論なしとしないだろうが、包括的な図式を提出するしぐさは鮮やかの一語に尽きる。

 もともと「プロパガンダ」という言葉はキリスト教の布教という意味で使われた言葉だが、一般には「宣伝」とか「情報操作」といった意味で使われる。しかし、エリュールの強調点はそれとは少し異なり、ある考え方を説得したり植え付けたりしようとすることよりも、なんらかの行動を起こさせようとすることに力点が置かれる。エリュール自身の定義は以下の通りである。

プロパガンダとは、人々を心理操作によって心理的に統合し、一つの組織の枠内に取り込み、能動的もしくは受動的にアクションに参加させることを目的として、組織化された集団が用いる一連の手法である。80ページ

 つまり、プロパガンダは人間の内面に働きかけて意見を変えさせることではなく、人を行動へと導くことをその本質とするというのである。

 ということは、プロパガンダの目的は特定のイデオロギーを植え付けることにはない。エリュールによれば、イデオロギーを普及させるためのプロセスのなかでプロパガンダが組織されるのではなく、まったく逆である。

 実際、ナチズムとソ連型共産主義においては、イデオロギーが副次的になって、プロパガンダを成功させるためだけのものになった。そしてこの転倒は、全体主義だけの特徴ではなく、戦後世界の全体にひろがり、いまやプロパガンダのない世界は想像がつかないほどにまでなっている。プロパガンダの妨害になるようなら、イデオロギーをうち捨てることも厭わない。逆に、イデオロギーは、どうすれば群衆の動員に成功するかというプロパガンダの観点だけから参照される。世論を喚起するための「刺激」としてか、行動に導く「神話」になるか、どちらかの有効性をもつかぎりで、イデオロギーが援用される。

 この意味で、プロパガンダが働きかけるのは意見ではなく、群衆の潜在意識の操作が本質である。心の内奥にあるひとつの傾向——通常は表面化せず、しかも他の相反する傾向との兼ね合いもあるので、それだけが突出することはない——が、「心理的結晶作用」の結果として、急激に表出し、他を圧した影響力をもつようになることを利用するのである。恐れや同情心などをはじめとする感情、そして性衝動に働きかけ、偏見やステレオタイプを正当化しつつ、行動へと駆り立てるのである。

 ただしプロパガンダはもっぱら扇動を目的としているわけではない。エリュールによれば、「扇動のプロパガンダ」だけでなく、「統合のプロパガンダ」もまた歴史的に大きな役割を果たした。統合のプロパガンダとは、「長期間にわたるプロパガンダであり、安定的で無限に再生される行動を植え付けることを目指し、日常生活に個人を適合させ、恒常的な社会環境に応じて思考と行動をつくり直すことを狙う」(100ページ)。その目的は、「社会を安定させ、統一し、強化すること」である。そのような意味での統合のプロパガンダは、ソ連やナチス・ドイツのような全体主義国家で展開されただけではなく、むしろ米国が「最も重要な事例」なのだという。

 また、プロパガンダはもっぱら政治的なものと思われがちだが、それだけではない。政治面だけではなく日常生活や経済・商業の領域にもプロパガンダが入りこんでいる。エリュールはそういうプロパガンダを「社会的なプロパガンダ」と呼ぶ。特定のライフスタイルがすぐれたものだと得心させ、無意識的に採用させることがその目的である。念頭にあるのは、当時フランス国内に急速に広まりつつあったアメリカ的なライフスタイルである。

 プロパガンダが政治的なものか、社会的なものかは、それが意識的におこなわれているかという違いである。社会的プロパガンダは、同様の傾向をもったたくさんの人たちによる意識せざる活動によって遂行され、結果として、「特定の行動および善悪の神話」(87ページ)が広められていくのだという。

 だが、そうなると結局のところ両者の違いは程度問題にすぎないようにもみえる。というのは、政治的プロパガンダであっても、「集団における体験を通して、ある種の新たな行動様式、党が形成したいと願っている人間の新たなタイプへの一定の同化……に人々を慣れさせる」(112ページ)ことが根本的な作業になっているからだ。政治的なプロパガンダがこうした「教育」をある程度まで意識的におこなうとしても、そこには親和性や志向性といった非意識的な選択もまた含まれているだろう。

プロパガンダという技術

 実はエリュールは、『技術社会』の英語版(1964年刊)において、プロパガンダを、「他の技術よりもっと複雑な、人間技術の新しい体系」であると述べている(以下『技術社会』からの引用は、前掲の邦訳によるものである)。ラジオ、新聞、映画といった機械的技術の複合体によって同時的に大人数に働きかけることが可能になったと同時に、心理学的技術(精神分析的技術を含む)の複合体を通じて行動へと駆り立てることも可能になった時代に、両者の複合体として登場したのがプロパガンダであり、この意味でプロパガンダは技術の粋たるものだというのである。

 ところで、『技術社会』が述べるのは、技術が社会を覆い尽くすまでに成長し、人間行動を支配するまでになっているということだった。かつての技術が社会の中に埋没していたのに対して、現代的な技術は、人間の道徳的判断によって押しとどめることができないほど自動的かつ自己増殖的になっており、社会全体を包摂する全体性をもつためにむしろ人間行動の決定因になるまでに至っている。そして、プロパガンダもまた技術であるというのは、すなわちプロパガンダにも、個人の意見を圧して全体に従わせ、自己増殖的に増大する力能があるということである。

民主主義の自壊

 そして、ここから出てくるのは、民主主義が必然的にプロパガンダを呼び込むし、そのことが民主主義を自壊に追いこむという憂鬱な展望である。

 たしかに全体主義国家とは違って、民主主義的であろうとすればプロパガンダを続けることに「良心の呵責」を感じざるをえない。しかし、非民主主義国との戦いのなかで、たがは容易に外れうる。そればかりか、国民主権という「見せかけの民主主義」(179ページ)のイメージが流行することによって、民主主義そのものの基礎が掘り崩されてしまう。

 エリュールによれば、現代社会は個人主義的かつ大衆社会であり、マスメディアの寡占化が進行しているが、そのような社会にあっては、世論形成にあたってプロパガンダが本質的な役割を演じる。もはや世論は、個々人の意見がしだいにあわさって形成されるものではない。まだ十分に練られていない漠然とした意見めいたものに対して、虚実ないまぜのプロパガンダが働きかけることによって、世論が形成されるのである。ひとたび世論形成に成功すると、もはや個人の意見をもつことは許されず、プロパガンダを通じて統一された集団において、世論に従って行動することを求められる。

 それだけではない。大衆社会のもとでは、ひとりひとりの有権者もまた、プロパガンダを必要としている。「投票するとき、有権者は自分の一票が重要性や価値を持たず、無意味だと強く感じる。だがプロパガンダに説得された私は、プロパガンダがコミットすべきだと提唱するアクションは極めて重要で、すべてが私にかかっている、と考える」。結果として、「社会が馬鹿にしていた私の意見が、今や重要で決定的なものとなった。もはや、私の意見は自分にとってだけ重要なのではなく、政治全般やあらゆる社会全体にとって重要なものとなった」かのような感覚を得るに至る(206ページ)。

 ところが、プロパガンダはその本性上、民主主義的な多様性を排除するものだから、プロパガンダが繁茂すればするほど、民主主義は自壊せざるをえない。「プロパガンダの影響を受けつつ民主主義体制のもとに暮らす人間は、民主主義を民主主義たらしめているすべての要素——民主的な生き方、他者を理解しようとする姿勢、少数派の尊重、自分の意見が正しいかどうかの自問、ドグマティズムの不在——を抜き取られている」。その結果として「民主主義の思想を伝播するためにプロパガンダを用いると、市民は心理的には全体主義の人間へと変わってしまう」のである(359ページ)。

対策はあるか

 プロパガンダの専横に対して、有効な対策をたてることはできるだろうか。

 この点でエリュールは、個々人が弱さを自覚すべきだと述べるにすぎない。「ゆえに、唯一の真剣な態度とは、プロパガンダの影響力に関して警鐘を鳴らすこと、人々が自分たちの弱さや脆さを意識して自分を守るよう促すことに尽きる」(360ページ)。楽観的な展望を潔しとしないこの抑制的な態度を、プロテスタント思想家の厭世的な世界観とみるべきだろうか。冷静さを失わない文明批評家の自己矜恃とみるべきだろうか。

 すでに述べたとおり本書は古い著作だが、それでも、本書を読んで感じるのは、プロパガンダに関するエリュールの議論が現代においてもなお有効だということである。ポピュリズムの蔓延やフェイク・ニュースの氾濫はすでに本書においてプロパガンダの帰結として述べられている。本書で論じられた主要メディアは新聞、映画、ラジオ、テレビであったが、インターネット、SNS、生成AIの時代にあっても、エリュールの懸念は過去のものになるどころか、予言めいた現実性をいや増しているようにみえる。過去を捨て去りバラ色の未来をことほぐほど、われわれはまだ新時代を生きていない。

 エリュールの文体的魅力は奔放でありながら用意周到な論理展開と同時に、アフォリズム的な言葉の強さにもあると思うが、それらは訳者によってみごとに日本語化されている。

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