その問いに、答えはまだない ──秋葉剛史『形而上学とは何か』書評(評者:横路佳幸)
記事:筑摩書房
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哲学には三つのKがある、とどこかで聞いたことがある。いわゆる3K労働とは異なり、「暗い」、「堅苦しい」、そして「小難しい」の三つだという。こじつけめいた響きはあるが、あながち的外れとも言い切れない。中でも、世界の成り立ちや構造、存在そのものを問う形而上学は、この三拍子が揃っている筆頭格だろう。日々生活する上で、世界や存在に思いを馳せる機会などなく、その必要に迫られることもまずない。だからこそ、一度でもこの学問に取り憑かれた者は、出口のない思索の海を漂うことになるのではないか、とさえ思わせる。
しかし、ここに紹介する一冊は、そうした懸念を抱くには及ばない。我が国を代表する分析形而上学者の手に成る本書は、旧来の哲学書にまとわりつく重苦しさを鮮やかに拭い去ってくれる。スマートで洗練された筆致でありながら、その語り口はどこまでも柔らかい。難解な専門用語の海で読者を溺れさせることなく、明快な論証と身近な思考実験を水先案内人として、形而上学の核心へと巧みに誘う、類いまれな入門書である。
数ある刺激的な問いの中でも、特に私の心を摑んだのは、人の同一性をめぐる第6章の議論だ。今日の「私」は昨日の「私」と同じであり、明日の「私」にも繋がっている。このごく当たり前に思える事実は、一体何を根拠としているのだろう。この問いの立て方自体、実にスリリングではないか。
例えば、身体が別人のものと入れ替わっても、「私」の意識や記憶が引き継がれてさえいれば、それは「私」に他ならないと直観的には思える。映画『君の名は。』で描かれたように、身体の入れ替わりに驚き叫ぶ主人公たちを、私たちはごく自然に受け入れられる。これは、身体ではなく「心の連続性」こそが、私が私であり続けることを担保するという考え方を裏付けるかもしれない。
一方で、この考え方には異論もある。映画『プレステージ』に登場するマジシャンは、瞬間移動と称して自身を殺害し、同時に寸分違わぬ「複製」を別の場所に生成する。この複製は、元のマジシャンと記憶も性格も全く同じで、意識も引き継いでいるが、果たして本人と言えるだろうか。「心さえ引き継がれていれば、それは私に他ならない」と断言することの難しさは、私たちをより一層深い迷宮へと誘うはずだ。
本書の射程は、しかし、こうした伝統的な問いに留まらない。近年、分析哲学の世界で注目される「概念工学」にも光を当てる。これは、私たちが使う「概念」の欠陥を洗い出し、よりよく機能するよう修繕・拡張していく営為を指す。本書はこの手法を用いて、社会生活や法、倫理の文脈で使われる「人」という概念を、その役割に即して彫琢し直す必要性を説いている。
思えば、ジョン・ロック以来の西洋哲学の文脈において、「人(person)」は自己意識を持つ理性的な存在に限定されてきた。しかし、新生児や重度の認知障害を患う人々をいわば埒外に置く、そんな偏狭な概念を分析することに一体どれほどの意味があるだろうか。理性を偏重してきた哲学の歪みを見直し、より公正で包括的な「人」概念を再設計する。本書はそうした示唆と勇気を与えてくれる一冊だと私には思われた。
このように、人の概念工学にまで目配せする本書は、3Kのイメージを見事一新してくれるはずだが、読み進めていくと、読者はもう一つのKの存在に気づくに違いない。それはずばり「結論が出ない」というKである。一つの問いに様々な見解が示され、論証と反論が続く。これは一見、終わりのない徒労に映るかもしれない。しかし「本当にそうなのか」と粘り強く問い、「ああでもない、こうでもない」ともがき続けるその様こそ、哲学のあるべき姿なのだ。本書を手に取ったあかつきには、他の学問では味わえぬこの知的格闘の醍醐味をぜひ心ゆくまで堪能してほしい。
序 章 形而上学とは何か
第1章 性質と類似性
第2章 因果
第3章 部分と全体
第4章 「もの」と「こと」
第5章 時間と様相
第6章 人の同一性
第7章 自由
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