「才能」という言葉の危うさ――『ギフティッドネス』の主張(前編)
記事:春秋社
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昨今の日本では、「ギフティッド」という言葉を聞いたことがない方は少なくなったかもしれません。ギフティッド(児)の定義として私が常日頃触れるのが、米国のマーランド・レポート(1972)による定義です。以下に「定義」として引用される部分を記します。
ギフティッド児やタレンティッド児は、資格を有する専門家により判定される、ずば抜けた才能ゆえに高い実績をあげることが可能な子どもである。…(中略)…高い実績をあげることが可能な子どもとは、実際目に見えて優れた成果をあげている子どもだけでなく、潜在的な可能性のある子どもも含む。その領域には、知的能力全般、特定の学問領域の才能、創造的思考や生産的思考、リーダーシップ能力、ビジュアル・アーツやパフォーミング・アーツ、精神運動機能がある。『わが子がギフティッドかもしれないと思ったら』春秋社、p. 17
確かに、ギフティッド(児)の定義には「才能」という言葉が使われます。さらに、一般に日本人が「才能」という言葉から受ける印象は、英語を母語とする人々が“gifted”という言葉から受ける印象と近くもあるようです。
それでは、「ギフティッドネス=才能」なのでしょうか。イコールではない。ギフティッドネスは、人間のもっと奥深くに実在し、容易には見えないものだ、というのが、本書の主張です。なぜなら、「才能」には、「卓越」がついて回ることが多いためです。そして、「卓越に必要な要素」を「ギフティッドネス」とする立場の研究が少なくないことに、本書は警鐘を鳴らしています。
数年前まで、私は日本に流布している「ギフティッド=障害」という誤解を正すことに注力してきました。現在、その誤解は薄らいできているようにも思います。(もちろん、障害のあるギフティッド児もいることの理解は、その支援を考えるうえで非常に重要な点であり続けています。)一方、「ギフティッドネス=才能」という点が先行しすぎてしまうがゆえに、当の子ども本人が置き去りにされる懸念は高まっているように感じることもあります。
「才能」という言葉が先行してしまうと、ギフティッド児の理解と支援に大きな影を落とします。なぜならば、子どもを見るレンズが、意識的にしろ無意識的にしろ、「この子には何の、あるいは、どの分野の才能があるのか?」というものになりがちだからです。このレンズは、一人の子どもを分野別に切り分けて理解しようという流れをつくり、あるがままの子どもを全人的に受け止めることから遠ざけ、子ども自身がどう感じているかを軽視することに向かわせることがあります。そして、子どもが大人の期待通りにならないときに悲劇を生みかねません。
特異な「才能」ではなく、特異な「発達」の軌跡を辿るが故に特異な「ニーズ」が生じる、というレンズが必要です。そこには、「才能」だけでなく、目に見えにくい、「感じ方」「考え方」「捉え方」「表現の仕方」も含まれます。そのレンズをもって初めて、ギフティッド児の「発達」の特異性にはどのようなものがあるのか、ギフティッド児の全人的理解ができる段階に入ります。その潜在的な部分を見抜く力が、ギフティッド児の支援には必要だ、特に、学業不振をはじめ周囲から誤解され、見出されずにいるギフティッド児の救済には必須だというのが、本書の主張です。
三歳でひとりで本を読める子どもは、特異な発達の軌跡をたどっている。その子の目標は、周囲から認められる功績をあげることではない。目標は、自己実現、そして、友だちを見つけることだ。『ギフティッドネス――理解と支援のための基礎・基本』p. 38
原著者のシルバーマンは確信をもって、上記のように断言します。これは、ギフティッドネスが卓越に向かう才能とイコールではないという理解の上に成り立ちます。「この子の才能は何か?」に囚われている限りは見落としてしまいやすく、その結果、その子の人生に致命的な傷をつくりかねない点です。
ギフティッド児の支援をめぐり、日本の学校の先生の多くがもっとも困っていることとして挙げるのが、「気の合う(打ち解けあえる)友だちがいないようだが、何とかしてあげたくても、教師の力ではどうにもならない」という点です。授業の中で高度な課題を盛り込む、宿題等の柔軟性を高める、探究的な時間を充実させる、自己選択できる機会を増やす――こうした対応なら、熱意ある先生方は「うん、少しずつでも、なんとかできそうだ」と感じるようです。しかし、お手上げだと感じるのは、クラスの中に「同じような子がいないのでは、どうしようもない」ということだというのです。これは、日本の現在の学校教育制度下では克服が非常に難しい問題であることは確かで、この課題の克服は喫緊の課題だとも思います。その一方で、日本の学校の先生方は、ギフティッド児の支援、教育において最重要課題とされる部分に、すでに気づいているのだということに、希望が見える気もします。
『ギフティッドネス』の原著となるGiftedness 101は、シュプリンガー社から出された心理学の入門書、The Psych 101 Seriesの一つです。ギフティッドと関連の深い分野として、Intelligence 101(Esping, A.著)、IQ Testing 101 (Kaufman, A. S.著)、Genius 101(Simonton, D. K.著)、Creativity 101(Kaufman, J. C.著)もシリーズの一つとして出版されており、いずれもそうそうたるメンバーが著者に名を連ね、これまでの先行研究に裏づけられた知見と、それに基づく著者たちの議論が展開されています。そのなかでもなおGiftedness 101の実証的かつクリアな議論の展開、入門書とは言えぬほどの専門性、首尾一貫性、そしてあふれ出る情熱と実直さ、公明正大さが光っています。そのなかで、異質さを異質と認めてはじめて真のインクルーシブが可能となるという理解がなされることの難しさを説いています。
本書の帯に推薦文をくださいました、行動遺伝学の第一人者、慶應義塾大学名誉教授の安藤寿康先生からは、推薦文とは別に以下の感想をいただきました。
「ヒトには文化的・社会的側面の底に、文化・社会に還元することのできない確固とした生物学的・遺伝的レイヤーが実在し、しかもそのvariationは社会的な見かけよりはるかに大きく、計り知れないという、行動遺伝学が教えてくれる人間観が、非常に明確に描かれています。」
◇『わが子がギフティッドかもしれないと思ったら――問題解決と飛躍のための実践的ガイド』(J.T.ウェブ他著・角谷詩織訳、春秋社)の紹介記事はこちら。