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ずば抜けた才能と生きづらさ 両面を持つ「ギフティッド」の子どもは、ごく普通に存在する

記事:春秋社

並外れているからこその困難

 将棋棋士の藤井聡太八段がさまざまな記録を塗り替え、耳目を集める。天才――。将棋に詳しくなくとも、彼の偉業を知れば、その言葉を重ねることを誰もためらわないだろう。まさに天の与えたもうた才能――ギフティッドだ、と。

 学問、スポーツ、芸術など、ある領域においてずば抜けた能力をもつ者に、人は羨望の眼差しを向ける。ときに何年に一人の逸材などとも表現されるように稀有な存在であるからこそ、スポットライトが当てられ、もてはやされるのがギフティッドであるともいえるかもしれない。

 しかし、彼らははたして類まれな存在なのだろうか。そして持ち前の才能を存分に発揮し、順風満帆の人生を送っているのだろうか?

 そんな疑問にひとつの答えを差し出すのが、『わが子がギフティッドかもしれないと思ったら』(J.T.ウェブ他著、角谷詩織訳、春秋社)だ。そこから浮かび上がってくるのは、新たなギフティッド像である。

 一〇歳のイーサンは、一見したかぎりでは終わりそうにない数理パズルを次から次へと解いては満足気な顔をしている。数理パズルで自分や他の人の知恵試しをするのが楽しいのだ。六歳のブランドンは、動物のぬいぐるみで空想遊びの世界に何時間も浸っている。その世界には政党やビジネスといったものも含まれている。六歳のローザは電車や飛行機の似ているところを聞かれると、「その二つはどちらも公共交通手段だわ」と答える。(中略)一五歳のサンジェイは、地方の高校で学ぶ数学をすべてマスターしてしまい、翌年は何をしたらよいかわからずに悩んでいる。彼の一一歳の妹は、人が誰かを殺したら殺人犯になるのに、兵士が爆弾を落として敵を殺すとヒーローになるのはおかしいと、熱烈に友だちと議論している。『わが子がギフティッドかもしれないと思ったら』p.15

 ギフティッドは、知能指数でいえば上位3~5%が該当し、一つあるいは複数の分野で突出した能力をもつものと定義される。華々しい功績ばかりに目が向けられるなかで見落とされてきたのが、ずば抜けた能力をもつ一方で、彼らが日常的にさまざまな困難にも直面しているとされる点である。

 ギフティッドの特性のひとつに「過興奮性」がある。刺激に対して強い反応を示す性質のことで、ギフティッドの生来の激しさと繊細さを説明するものとされている。これは「強み」でもあるが、たとえば何かに没頭するあまりに社会生活に支障をきたしたり、何事も過剰に反応しすぎる傾向があったり、感情をコントロールできずに周囲と衝突したりといったことがこの過興奮性により引き起こされているとも考えられ、得てしてネガティブに捉えられる。ほかにも20を超える共通する特性が紹介されているので詳細は本書を参照いただきたいが、端的にいえば、並はずれている=標準からはずれているために、社会とのズレが生まれ、生きづらさを抱えているのがギフティッドだということだ。

 ギフティッドは、いわば月のような存在なのかもしれない。つねに同じ面に光が当たり、裏側には太陽の光は届かない。輝いている面だけを見てわれわれはその存在を捉えたつもりになっているが、裏面も含めて考えなければ、その本質にふれることはできない。ギフティッドも、抱えている困難や生きづらさといった側面もあわせて受けとめてはじめて、正しい理解が深まるといえるのではないだろうか。

 しかし、教育や医療の現場ですら、ギフティッドに関する理解はまだごく一部にとどまるのが現状のようだ。いわんや、家庭においてをや。普通とはどこか違うわが子の育てづらさがギフティッドによるものだという認識がなければ、解決の糸口もつかめず、周囲の理解を得ることはおろか、困難を誰とも共有できずに追いつめられてしまうことも少なくないようだ。

見出される潜在的ギフティッドたち

 ギフティッドの定義を簡単に示したが、「知能やギフティッドネスという概念は厳密に定義できるほど単純ではな」いことには注意する必要がある(同、p.20)。それは、知能検査等では容易に測れない能力もギフティッドの領域には含まれ(たとえばリーダーシップ、創造性、芸術面など)、ギフティッドネスをどのように測定するかは今もなお難しい課題であり、さらに「ギフティッドネスはすでに偉業を成し遂げているような人に限定されず、適切な訓練や機会が与えられれば、ずば抜けたレベルのことを成し遂げる可能性のある人も含まれる」(同、p.20)とされるためだ。

 まだ発揮されていない潜在的な能力をもつ者を、どう見出せばよいのだろうか? 二重の意味で難しい問いが突きつけられる。

真のギフティッド児は非常に稀にしかいないと考える人が多い。実際は広く一般に考えられているよりも、もっとずっと高い割合でギフティッド児は存在する。ほぼすべての学校、地域にギフティッド児はいる。学校や地域がギフティッド児の存在に気づいていないだけで、彼らは確かにそこに存在する同、p.16

 この一見ごく普通に見える潜在的なギフティッドという存在が示唆するのは、ギフティッドの問題の現代性でもある。従来の天才像とは異なるギフティッド像に社会がようやく気づきはじめたいま、急がれるのは困難を抱えるギフティッドとその家族に適切な支援の手を差しのべることである。そのためには学校など教育の場における協力や理解が不可欠だが、組織や制度の見直しは一朝一夕にはいかない。しかし、できることはある。

 本書では、ギフティッドの日常的な困難にいかに対処するかという、実践的な方法の紹介に大きくページが割かれている。家庭での支え方、ルールのつくり方、しつけ、友だちのつくり方など多岐にわたる具体的なアドバイスの目白押しで、親や教師がすぐにでも取り入れられる方法が提案されている。

 まずはギフティッドという存在に関する気づきを社会全体の認識へと変えていく必要があるだろう。困難をもつ子どもに対しては「もしかするとギフティッドかもしれない」という視点で接することが求められるのではないだろうか。

 自戒をこめていえば、われわれは知らず知らず、ギフティッドに希少性を期待していたのかもしれない。これぞギフティッドとでもいえるような、わかりやすいイメージに飛びつくきらいも少なからずあった。

 いまやギフティッドは、ありふれた存在になったといってもよさそうだ。かつての天才児神話を振り払い、ギフティッドをそのように捉え直さなければならない局面に来ているともいえるかもしれない。

 日本社会におけるギフティッドを取り巻く環境には、まだまだ課題が山積している段階でもあるだろう。しかし、社会の理解が深まることで、着実にその道は拓かれていく。今、ありふれたギフティッドたちとともに歩む時代が来ている。その道のりを明るく照らすのは、関心をもち、理解しようとする社会の眼差しである。

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