数学を自分のものにするために必要なのは、才能でも論理でもない。直観だ! 『こころを旅する数学』
記事:晶文社
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「私には特別な才能などいっさいない。ものすごく好奇心が強いだけだ」
15歳のころ、私はアインシュタインのこの言葉が大嫌いだった。トップモデルが「大切なのは内面の美しさよ」と言っているようなもので、嘘っぽいと思っていた。はっきりいって、こんなばかげた発言に耳を傾けたい人などいるだろうか?
しかしながら、本書で最も伝えたいのは、アインシュタインのこの言葉を真に受けるべし、ということなのだ。
そもそも、私たちがこの言葉をきちんと受け止めようとしないこと自体が驚きである。アインシュタインが有名なのは、救いようのないばか者だからでも、口から出まかせの嘘をつくからでもない。道行く人に尋ねてみれば、アインシュタインの相対性理論は人間の思想に重要な進歩をもたらした、と言うだろう。それなら、アインシュタインが語ったり書いたりしてきたことには注意を払う価値がありそうではないか。
ところが、アインシュタインの言葉は、自分の創造性は誰でも手に入れられるもので、自分の姿勢がほかの人とほんの少し違ったにすぎない、だからそういう創造性は誰の手にも届くところにあると言っているように聞こえる。それで、私たちは、彼が本気でそんなことを言っているわけはないと思う。哀れなあの老人は自分でも何を言っているのかわからなくなっている、それどころか、謙遜しているように見せかけて格好つけているだけではないか、というわけだ。
(中略)
400年前、当時最高の数学者だった人物がある著作のなかで自分の人生を語り、その本はその後、古典的名著になった。冒頭から著者のメッセージははっきりしている。まとめると次のようになるだろう。「私はほかの人より賢いわけではない。幸運に恵まれ、誰よりもすぐれた能力を発揮できるだけの魔法を見つけただけだ。これから私がどんなふうにしたのかを説明しよう」私たちは、アインシュタインの言葉に対するのと同じ拒絶反応から、この数学者(ルネ・デカルト)が言わんとすることに耳を傾けようとせず、その著作である『方法序説』をしかるべき棚、つまり「自己啓発書」の棚には分類しようとしない。
そもそも、偉大な数学者になる方法などないと誰もが思っている。ペニスのサイズを大きくする方法や、自宅で毎日2時間だけ仕事をしてお金持ちになる方法が存在しないのと同じことだ。
デカルトは真逆のことを言っている。それなのに、誰もそれを気に留めようともしないのだ。
アインシュタインとデカルトが伝えようとしたことを理解するには、まず、数学をめぐる次の3つの誤った考え方を頭から追い払う必要がある。
1.数学の問題を解くには論理的に考えなければならない。
2. 生まれつき数字に強い人もいれば、生まれつき幾何学的直観に長けた人もいる。ところが、残念ながらたいていの人は数学がまったく、それこそ1ミリも理解できず、それは絶対に変えようがない。
3.偉大な数学者は生まれつき、脳のつくりが私たちとは違う。
1つ目は明らかに間違いだ。数学者は論理的になど考えない。誰も論理的になど考えないし、そもそも論理的に考えること自体が厳密にいえば不可能ですらある。論理は、考えるのにはまるで役に立たない。まったく別の場面では役立つのだが、それについてはあとで説明しよう。
2つ目は最も有害である。この考え方のせいで、私たちは固定観念に縛られ、数学をさっさとあきらめてしまう。この考え方のせいで、人類のゆうに半分が、数学とは異国の地であり敵のような存在だと思い込んでいる。この考え方のせいで、最も「才能に恵まれた者」も含め、ひとりひとりの前に超えられない壁が立ちあがる。つまり、それぞれが「生まれつき」備えている数学的直観のレベルはここまで、と決めつけられてしまうのだ。
3つ目は2つ目の考え方の単なる言い換えだ。つまりアインシュタインやデカルトであるためには、そういう人間に生まれなければならず、あとからそういう人間になることはできない。アインシュタインとデカルトがその逆のことを言っているのは、私たちをからかっているにすぎないというわけだ。
あとから数学が得意に「なる」など無理だ。この見方は間違っている。だが、それは重要な真実から発せられた見方でもある。数学者の魔法の力は論理ではなく直観である、という真実である。
アインシュタインは、自分の発見において直観がいかに重要だったかについてよく話していた。「私は直観とインスピレーションを信じる」と大まじめに言っていた。一方、数学者たちは、数学には2つの異なるバージョンがあることをよく知っている。
公式バージョンは数学の本に載っている。不可解な記号を使って難解な言語で書かれ、論理的かつ体系的に示される、あの数学だ。
もうひとつの秘密のバージョンのほうは、数学者の頭のなかにあって、「数学的直観」と呼ばれている。脳内表象と抽象的な感覚からなり、視覚的に捉えられることも多い。数学者はこれを「自明なこと」として感じとり、喜びを感じる。ところが、この自明なことを数学者以外の人たちと共有するとなると、大いにとまどってしまう。あれほど自明だったものが、いきなりそうでなくなるからだ。
自分の考えを言葉に書き換えるために、数学者は難解な言語と不可解な記号を考案せざるをえなかった。音楽家が楽曲を書き起こすために難解な記譜法を考案しなければならなかったのと同じである。ただし、音楽家は実践できるという点で数学者よりはるかに有利だ。わかってもらうには曲を演奏しさえすればいいからだ。相手が楽譜を解読する必要はない。
数学者が抱える大きな問題は、その手が使えないことにある。頭のなかの考えはきらきらと輝き、シンプルで力強い。それなのに、紙に書き起こしたとたんに輝きを失って貧弱になってしまう。数学者の不運は、自分の頭のなかでしか数学を“演奏”できないことなのだ。
子供に音楽の手ほどきをするのに、モーツァルトやマイケル・ジャクソンの楽譜を、曲をまったく聞かせないで解読させようとしたら、数学と同じように音楽も世界共通の嫌われ者になってしまうだろう。
直観は、数学の存在意義である。直観なしの数学には文字どおり何の意味もない。だからといって、数学が何ひとつ理解できないならもうどうしようもない、と結論づけてはいけない。
誤りは、数学的直観とは統計データであり、超えられない限界だと思い込むことにある。ところで、数学的対象に対して私たちが抱く直観は生まれつき備わったものではない。正しい方法さえわかれば、直観をつくりだして、それを日に日に大きく育てることができるのだ。
数学者は、公式な数学、つまり本に載っている数学がすべてを語っているわけではないことをよく知っている。本当に大切なのは、その本に書かれていることを“理解”できるようになること、それが “見える”ように、“感じられる”ようになることだとわかっている。
そのため、日々数学者が心をくだくのは、直観を発達させ、さらに豊かで明快で強力なものにすることである。数学者にとっては、自分の著作や発表された研究成果よりも直観のほうがはるかに自分の大傑作で、生涯をかけた業績だといえるからだ。
“見る” “感じる” “真に理解する” と同時に、人類の99.9999%が異様なほど抽象的でまったく理解不能だと判断するものを「自明だ」と捉える並外れたテクニック、それこそが数学者のすぐれた技であり、数学者の大いなる秘密である。この技を実際に身につけた者だけが、それがどこに導いてくれるのかを知っている。
それにしても、数学者たちはどうやっているのか? それがこの本のテーマである。
1.数学の実践は身体活動である。理解できないことを理解するには、頭を働かせなければならない。音もしないし目にも見えないが、どうしても必要な活動である。それはまた直観を豊かにし、さらに力強く奥行きのある新たな脳内表象を発達させる活動だ。その活動が、私たちの能力を強化し、開花させる。数学のやり方を学ぶことは、身体の使い方を学ぶことである。歩き方や泳ぎ方、踊り方や自転車の乗り方を学ぶようなものだ。こうした動作は生まれながらにできるわけではないが、それを習得する能力は誰にでも備わっている。
2.数学が大得意になる方法はある。この方法は、学校では絶対に教えてくれない。しかも、学校で習うどんな方法にも似ておらず、従来のどんな教育の原則にも当てはまらない。それはまた、努力を求めるのではなく、簡単に目的を達成しようとする方法だ。ロッククライミングのテクニック、武術、ヨガの一種や瞑想にたとえられるかもしれない。このやり方では、恐怖を乗り越え、未知のものを前にして逃げ出したくなる衝動を抑え、反論されてもそこに喜びを見出すにはどうすればいいかを学ぶことができる。それは、自分の直観のプログラムを書き換える方法といえる。そういう意味では、単に数学が大得意になる方法ではなく、とても賢くなるための方法でもある。
3.偉大な数学者の脳も私たちの脳と同じように動いている。あらゆる身体活動と同じで、数学に対する生まれながらの能力もおそらく、すべての人に公平に分け与えられているわけではない。とはいえ、生物学的な違いが演じる役割は、一般に考えられているよりずっと小さい。
数学の能力の不公平さはとんでもなく大きく、生物学的な違いが原因だという仮説はとても成り立たない。もちろん、遺伝的にほかの人よりも神経代謝が効率よく、速く、力強く行われるために、ほかの人より数学に「2倍」向いているという人もいるかもしれない。しかし、適切なやり方を学び、しかるべき思考回路を発達させ、正しい心構えを身につければ、数学に「10億倍」の能力を発揮できるようになるのだ。
さらに、数学の能力をめぐる行き過ぎともいえる不平等には、もっと単純で信用できる別の説明もある。それは、数学が大得意になる方法はまったく教えてもらえないという説明だ。それは偶然に任されている。自力でその方法の一端でも見つけられるどうかは、本人しだい、運しだいというわけだ。たいていの場合は何も見つけられないが、それは、その方法の肝心な点が思いがけないもので、直観に反するものだからだ。その方法を探しているはずが、完全な見当違いになることも珍しくない。
偉大な数学者の脳も私たちの脳と同じように動いている。しかし、偉大な数学者は子供のころから、その生い立ちや周囲の環境とのつき合い方を通して数学が得意になる方法に親しむ機会に恵まれた。人生の偶然によって、自分では意図せず、自覚もないまま、自分自身でその方法を学んだのだ。
(ダヴィッド・ベシス『こころを旅する数学』第1章「3つの秘密」より抜粋・編集)