「正しさ」が覆い隠してしまうものを大事にしたい 生活書院・髙橋淳 (編集者リレーエッセイ第12回)
記事:じんぶん堂企画室
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有斐閣の松井さんがなぜお声がけしてくださったのかと、その後もしばらく考えてはみたけれど、結局、答えは見つからなかった。でも、少しだけこれまでのリレーの流れを変えてみてもと思ってくださったのかなと、勝手に考えてお受けすることにした。
書き継いでこられたみなさんと大きく違っているのは、(おそらく)私が最年長であるだろう65歳だということ、そして「編集者」であると同時に、パートナーとたった二人で営んでいるとても小さな版元の経営者だということだろう。
年数だけを言えば、出版の世界に入って40年が経ち、自分で会社をたちあげてからでも20年という歳月が流れたが、編集者としての見識・知性・実務能力……どれひとつとっても自慢できるところはない。でも……年間10点、がんばっても15点の新刊を、毎月の支払いと資金繰りに8割方の労力と時間をもっていかれながら、「どうです! いい本ですよ! 読んでください」といって頑張って作っている一人版元、二人版元がたくさんある。それが「人文書」の世界の水脈を豊かにしているということもあるのではないかと、ひっそり書き残しておくのが私のとりあえずの役割なのだろうと思う。
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1980年に東京に出てきた私が、その時もって出て今も大事にしている本。その中の1冊、樹村みのりさんの初期短編集『雨』の中に「にんじん」という作品がある。少し引かせていただく。
にんじんこそ生徒の守るべき規則だとか にんじんこそ生活の術だとか[略]だれもが自分のにんじんこそはみんなも食べるべきだって真剣に信じちゃってるのさ にんじんを食べないのは人間じゃないっていわんばかりなんだからね樹村みのり1977「にんじん」(『雨』サンコミックス、所収)
樹村さんは当時のインタビューで「中学生から高校生ぐらい」を対象に漫画を描いていると述べているが、高校生だった私は樹村さんのこうした作品によって(そうとは意識していなくても、時によかれと思ってのことであっても)「正しさ」をもって人を抑圧したり支配したりすることがあると知り、そしてそれは自分の中にも強くあることだと気づかされた。
時は飛ぶが、2011年の東日本大震災の後、「なぜあんな場所で子どもを育てていられるのか、信じられない」と残った(残らざるを得なかった)親たちを非難する声や、「これを契機に」「オルタナティヴな未来を」といった声があがった。福島の農家に生まれた私はその「正しさ」にどうしてもついていけなかった。やはり漫画家の端野洋子さん(端野さんは[後述の]兄の入所施設がある西郷村の酪農農家の生まれで、現地で作品を描かれていた。震災と福島を描いた作品にアフタヌーンKCの『はじまりのはる①②③』がある)へのインタビュー「描かないと福島が潰される」などで私の違和をようやく形にできたのは、震災から5年後の2017年、小社刊の雑誌『支援vol.6』でのことだ。その頃になると「これを契機に」の人たち(の多く)は、どこか別の界隈に移ってしまっていた。
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私には、もう逝ってしまったけれど重い知的障害のある兄がいる(「いた」と最初書いたが違う気がした)。本を読まない(読めないと括るのはどうかと思っている)兄、入所施設で暮らす兄、そこから遠い場所で、私は「知的障害のある人たちが地域で生きていく本」をどこかに後ろめたさを抱えながら一所懸命作っていた。
兄が若い頃、夏休みで養護施設から帰ってくると、皆で海に出掛けた。宿泊先の海辺の漁師宿に兄と同じ年頃のやはり知的障害のある娘さんがいて、二人はなにかいい雰囲気だった。でも、それはあってはならないことに周りからされてしまう。私は兄の悔しさ、やるせなさを引き受けて物事を考えようとしてきたつもりだった。でも、今、その欺瞞を思う。兄の不全感を盾にして私は私の不全感を言ってきたに過ぎなかった。何より、「兄たち」は今でも「かわいそうだけどこっちには入ってこないで」と眼差される存在としてあり、私はそれに対して無力のままだ。
そして会社をたちあげて10年が経った2016年、津久井やまゆり園事件が起きた。私は兄が当時入所していた福島・西郷村の施設にとにかく顔を見ねばと出かけていった。ただ怖かった。事件後すぐに追悼の集会が各地でもたれ、入所施設という存在そのもの、そこに当事者を入所させている家族に厳しい目が注がれた。それは「正しい」糾弾なのだろうと頭では分かりつつ、聞くたび読むたびに自分の皮膚が切られるようだった。「正しさ」が言えなくさせているもの、見えなくさせているものもあるのではと、どうしても思ってしまった。そんな中で出会ったのが、猪瀬浩平さんが『現代思想』に書かれた「土地の名前は残ったか?」だった。津久井やまゆり園が置かれた辺境の土地の歴史と記憶。この事件をなんと名付け呼ぶのかも含め、その問いかけは、私には重くて大事なもののように思えた。ようやく起きたことと向き合える気がした。
そこから3年近くをかけて、猪瀬さん、写真の森田友希さんとで『分解者たち』(猪瀬さんは、あとがきで「この本は、三人の〈弟〉の本である」と書いてくれた。その意味についてはぜひ本を読んでいただきたい)。
そして、もう一冊、親の立場から――私が感じた痛みに薬を塗ってくれている気がした――「正しさ」に正面から向き合って言わねばならないことを言ってくださった、児玉真美さん(児玉さんと初めてお会いした時、まだ元気だった母が作ったあんぽ柿を差し上げたらすごく喜んでくださった記憶がある。なんだか母たちの連帯のエールのようでもあった)の、『殺す親 殺させられる親』。この2冊を世に送り出せたことで、なんとか持ちこたえることが出来たと思う。
最近若い友人から「髙橋さんは文句言いだ」と言われた。誉め言葉と受け取って、でも私ごときがただ文句を言うのではどうしようもないから、文句に中身をきちんと入れてくれる書き手を探して一緒に本を作っていこうと思う。
亡くなった立岩真也さんも「文句言い」だった。主著の『私的所有論』が小社で文庫本となった時に補章で書かれた言葉で帯にも引かせていただいたが、立岩さんはこう言っている。
この社会は、人の能力の差異に規定されて、人の受け取りと人の価値が決まる、そしてそれが「正しい」とされている社会である。[略]本書はそのことについて考えようという本だ。もっと簡単に言えば、文句を言おうということだ。立岩真也 2013 「ごく単純な基本・確かに不確かな境界――第2版補章・1」『私的所有論 第2版』生活書院
立岩さんから受けた恩義はとても深く、今でも一人で酒をのんだりしていると顔が浮かんで喉の奥の方がヒリッとする時がある。恩に応えるとすれば立岩さんがやり残したことは何かを措定し言葉にしていくことだろう。それは、松井さんがあげてくださった『「社会」を扱う新たなモード』のような本、そして雑誌『支援』の最新15号で荒間瑛さんが書かれた「鶏と出会う」などで、少しずつカタチになってきているのではと思っている。
最後に……私は版元の代表かつ編集者として、作ってきた全部の本に関わってきた。この紙幅と拙い原稿の中ではそれらすべてに言及することは叶わなかった。そのことを深くお詫びしたい。
私からのバトンは、サッフォーの山田亜紀子さんにお渡ししたいと思います。『支援vol.15』の取材などを通して私にもとても大事な場所となった、つくば市。編集者としての仕事を持続しながら、山田さんはその地で2023年からブックカフェを営まれています(『支援』をはじめ小社の本も何冊か扱ってくださっています)。そして今年の夏、満を持してフェミニスト版元としての活動も開始されました。首都圏から離れた地だからこその面白さも含め、これからどんな展開を見せてくださるのか、極小版元の仲間として私も楽しみにしています。