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「生成」のヒントは少女の軽さにある――澤野雅樹『ドゥルーズ入門 来るべき知への招待』より

記事:平凡社

平凡社新書『ドゥルーズ入門 来るべき知への招待』(澤野雅樹著、2025年12月15日刊)
平凡社新書『ドゥルーズ入門 来るべき知への招待』(澤野雅樹著、2025年12月15日刊)

「生成」と「発生」

 生成。原語は「devenir」であり、「ドゥヴニール」と読む。通常の意味は「なる」であり、名詞形では「なること」となる。英語の場合は「become」が「なる」で、名詞形は現在分詞の「becoming」としなければならないが、フランス語では名詞形に動詞の原形を用いるため、「devenir」のままである。もちろん奇怪な専門用語のたぐいでなく、ふつうの単語であり、たとえば「Que veux-tu devenir?」は「きみは何になりたいのかな?」といった程度の意味である。

 生成を意味する単語にはもう一つ大事な言葉があり、ふつうは「発生」の意味で用いられる「genèse」がそれである。生物学的な発生にはドゥルーズも大いに関心を抱いていたから、彼の著書をひもとくといたるところに発生論的な記述が見られる。しかし「genèse」の使用にやや注意を要するのは、定冠詞をつけると即座に聖書の「創世記」を意味し、神による「創造」説に直結してしまうからである。生命の神秘を内在的、つまり生物学的ないし化学的に探究していく道ならどれほど深みにはまってもいいのだが、「創造」を持ち出すと途端に内在的な探究の道は遮断されてしまう。創造説のなにがいけないのか? 生命の神秘をとことん問うかわりに超越的な原因を掲げて思考停止に陥ってしまうからである。問題を発見し、問いつづけるのが学問だとすれば、一足飛びに「解」に飛びつき、問わずに済ますやり方は学問を放棄し否定することである。

 したがって発生論的(génétique)な問いを生成(devenir)の側に引き寄せ、「誰が?」の問いも超越への通路を遮断した上で系譜学的(généalogique)に問われなければならない。超越によって内在的な問いの道が遮断されるのだとすれば、超越への通路を遮断すれば、それを契機にそれまで遮断されていた道の門が開かれ、発生論的な問いの見晴らしもまた開けてくるはずだ。

 生成はドゥルーズ哲学のキモとも言える中心概念だから、彼の著書をひもとけばどの本でも見つかるが、とりわけ重要な役割を果たしているのは『意味の論理学』と『千のプラトー』である。『意味の論理学』はルイス・キャロルを題材に取った著作だから、彼の代表作である『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』の表題にもしっかり刻まれている少女、アリスの冒険を哲学的に問うた作品である。

少女の軽さと少年の重さ

 唐突にこう問うてみよう。なぜ冒険の主役は少女でなければならなかったのか? どうして少年ではなく、最初に少女が冒険に旅立たなければならなかったのか? この問いに対し、キャロルの知り合いの少女を持ち出すのが妥当と思われるかもしれない。しかし、それでは問いに答えたことにならない。また、回答としてもあまり愉快ではない。ドゥルーズはこう書いている。

 少女だけがストア派の賢者を再発見するわけではない。なるほど、ルイス・キャロルが一般に少年を嫌っているというのは本当である。少年たちには過剰な深さがあり、つまりはにせものの深さがあり、にせものの知恵や動物性がそなわっているのである。『不思議の国のアリス』では、男の赤ん坊はブタに変えられる。概してストア派を把握しうるのは少女のみであり、少女だけが出来事の意味(センス)を解し、非物体的な分身を解き放つ。しかしながら、小さな男の子がもしも吃音で左利きだったなら、意味を表面の二重の意味として制するということもありうるだろう。(『意味の論理学』小泉義之訳、河出文庫、2007年、上巻32頁。原文p. 20)

 この文章が大事なのは、少女の軽さに言及するかわりに、少年の重さ、男の子の鈍重さに言及している点にある。少年は独力で旅立つことができない。ただし、吃音の悩みを抱えていたり、左利きであったりと、いわゆる少数性(minorité)に身を置いているなら、それを契機にある種の少女性に開かれ、独りで旅立つことも可能になる。少年たちが《少数者=マイノリティ》になることでしか身軽になれないのは、《多数者=マジョリティ》に安住する主体にとって、吃音や左利きは内なる異分子であり、それが彼らを生成に導く梃子になるからなのだ。総じて多数派は重く、動きも反応も鈍いことが多く、だから彼らは定住し、今いるその場を動かないし、少数者の声にも耳を貸さない。一時的に逗留し、合図があればすぐに旅立つのは少数者と相場が決まっている。

 少女のウソについて、ドゥルーズたちは「目にもとまらぬ速度」と言っていた(+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』宇野邦一ほか訳、河出文庫、2010年、中巻231頁。原文p.332)。本音をつかもうとするマジョリティの手を砂のようにすり抜け、たちまち姿を消してしまう速度。少女アリスは自らの軽さに少しの疑問を抱くこともなく、ただウサギを追って穴に落ち、「不思議の世界」に迷い込む。アリスが穴に落ちたのは軽率だったからではなく、少女の本性としての軽い足取りを失わなかったからである。もちろん好奇心旺盛な性格や、欲望に素直な姿勢は、大人の目から見れば「軽率」とそしられかねない。しかし彼女の行動を「軽率」となじることにともなう重さこそ、生成を堰き止め、少女を身動きできなくする道徳による手枷足枷の役目を果たす。ドゥルーズは鈍重な男の子はブタに変えられてしまったと言うが、重々しい大人たちもまたブタに変えられてしまうのだ。

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