1. じんぶん堂TOP
  2. 文化・芸術
  3. 冨原眞弓『トーヴェ・ヤンソン』あとがきより 第77回読売文学賞受賞

冨原眞弓『トーヴェ・ヤンソン』あとがきより 第77回読売文学賞受賞

記事:筑摩書房

ヤンソン研究の第一人者が8年の歳月をかけて書き上げた遺作にして、決定版評伝。
ヤンソン研究の第一人者が8年の歳月をかけて書き上げた遺作にして、決定版評伝。

 ひとの死はいつだって不意討ちでやってくる。二〇〇一年六月のヤンソンの死もそうだった。肺癌のしつこい転移に悩まされていることは二年まえの本人の手紙で知っていたのに、どこか事実とは思えず、腑に落ちていなかった。だから驚いた。しかも当時ほど、わたしがヤンソンを物理的にも心理的にも身近に感じていた時期はなかったのだ。朝から晩までヤンソンの翻訳をやっている真っ最中で、定期的に手紙のやりとりをし、年に何回か、ヘルシンキのアトリエをたずねるのが習慣になっていたのだから。

 ひょんなことから、ムーミン物語を生まれてはじめて読んだのが、一九八九年。本を手にした場所が、ストックホルムの書店だったから、何冊かの英語訳がわたしをムーミン谷へと導いてくれた。おとなの小説も書いている現役の作家だと聞いて、自分の読める言語に訳された小説や短篇集を読みはじめた。そして波長が合った、としかいいようがない。はじめてカフカの短篇を読んだときの、落ちつかないような、心地よいような、親和力を感じた。

 ただこのとき英語で読むことができるおとなむけの小説は、日本では「ヤングアダルト」に分類される伝記的な『彫刻家の娘』(一九六八、英訳一九六九)と『少女ソフィアの夏』(一九七二、英訳一九七四)のみ。しかも当時はすでに絶版にひとしく、入手はできなかった。

 一九五〇年代にロンドンの夕刊紙に連載された漫画「ムーミン」が、七〇年代までつづく世界的な第一次ムーミンブームの火付け役となったイギリスでさえ、状況はおなじだった。おとなむけの小説や短篇で、ヤンソンの生前に翻訳刊行されたのは、先の二作をのぞくと、作品の舞台がアメリカのフロリダ州だからか、『太陽の街』(一九七二、英訳一九七四)ただ一作である。仏訳も独訳も事情はたいして変わらない。

 読める翻訳書がないのなら、自分がスウェーデン語を読めるようになればいい。それならいっそ未邦訳作品を自分で翻訳しよう。この短絡的な発想にうながされて、英文の手紙を書き、一九九〇年二月一三日、滞在先のストックホルムから投函した。これがヤンソン宛の第一便となる。やきもきするまもなく、返事がすぐに来た。日付は二月一六日、近日中にTVアニメの件で東京に行くから、そのとき会おうと書いてあった。

 一九九〇年三月にヤンソンが来日して、プレス会場のホテルのカフェで立ち話をしたのが、はじめての対面だった。翌年、ヘルシンキで会った。以降、毎年二度ばかりヘルシンキをおとずれ、滞在中には何度もアトリエに通った。あとで知ったのだが、このころのヤンソンは体調も万全ではなく、ほとんど取材には応じていない。一九九四年にタンペレでおこなわれた八〇歳の誕生日を祝う国際大会で、報道陣の集団インタヴューに応じたのが最後とされる。

 それでもヤンソンは快く頻繁に会ってくれた。一九九〇年の日本― フィンランド共同制作TVアニメが巻きおこした第三次ムーミンブームのさなか、製品化の打診やら取材の申込やら許可の申請やらが世界中から舞いこんできて、多忙をきわめていた時期だった。にもかかわらず、とりとめもなく、だが熱意だけはあふれんばかりに、おとなの本の翻訳の話ばかりする四〇歳年下の日本人の相手を、なぜかしてくれた。

 困ったことに、ヤンソンのおとなの小説の出版計画は難航した。作風も主題もまるで知られていない。まずは短篇を掲載してくれる出版社をあたることから始めた。短篇「記憶を借りる女」の雑誌『みすず』(一九九三年九月、三九〇号)への掲載にこぎつけた。短篇作家ヤンソンの本邦デビューである。この短篇を読んだ筑摩書房の編集者が、剛腕をふるって「トーべ・ヤンソン・コレクション」(全八冊)という大胆な企画を通してしまった。彼女にはどんなに感謝しても感謝したりない。

 インタヴュー嫌いを知っていたから、ヘルシンキのアトリエではあえて撮影も録音もせず、その場で筆記もしなかった。翻訳中の作品の感想をとりとめもなくしゃべるうちに時間がすぎる。こうして作者との面談や書簡をつうじて、あまりにぜいたくすぎて現実とは思えない翻訳の仕事が始まった。

 一九九一年に『彫刻家の娘』の新訳を出版し、翌九二年、約半世紀ぶりに復刊されたムーミン物語の幻の第一作『小さなトロールと大きな洪水』の翻訳出版にこぎつけた(いずれも講談社)。

 そして最初の短篇集『軽い手荷物の旅』(「トーベ・ヤンソン・コレクション1」)が刊行される。一九九五年一〇月のことだ。わたしの悲願であったおとなむけの小説の翻訳は、当時単行本として刊行されていたすべてが、「トーベ・ヤンソン・コレクション」(筑摩書房)として刊行された。短篇集『軽い手荷物の旅』、『誠実な詐欺師』、短篇集『クララからの手紙』、『石の原野』、短篇集『人形の家』、『太陽の街』、『フェアプレイ』、そして短篇集『聴く女』。最後の巻の刊行が一九九八年五月なので、ほぼ三か月に一冊のとんでもないペースである。八冊目の翻訳が終わるころには、ヤンソンが最新刊『島暮らしの記録』を完成させた。わたしはこの本も翻訳し、やはり筑摩書房から一九九九年七月に刊行した。

 今回あらためて調べて驚いた。企画ものや再録ものはべつとして、児童文学とおとなの文学を問わず、絵本や新聞連載コミックスの単行本をふくめ、ヤンソンの生前に出版された全作品があたりまえのように書店や図書館で手にとることができる国は、作家の母国フィンランドとスウェーデンのほかには、地理的にも文化的にも遠いとされる日本だけだったのだ。

 一九九九年一二月、わたしはヘルシンキ市内のアトリエをたずねた。これが最後の訪問になるとは夢にも思わなかった。足もとには踏み固められた雪が鉛色に凍てつく舗道、頭のうえには重苦しい空がたれこめる、うす暗い冬の昼さがりだった。その日、ヤンソンはいつも以上に疲れているようすで、話の途中でも、しきりに立ったり坐ったりと、落ちつきがなかった。肺癌末期に特有の痛みに堪えかねていたのだろうと思う。

 わたしはいたたまれず、いつもより早めに暇乞いをした。別れぎわにヤンソンは真顔でいった。「ひみつをひとつ。いい? わたしはもう小説を書けない。そう、なんにも。これはひみつだから、だれにもいってはならない。いいですか?」

 わたしは虚を突かれて、どう反応すればよいのかわからず、しばらく呆気にとられて立っていた。あのとき、それはどういう意味ですか、と真意をたださずに帰ってきたことを、その後しばらく悔やんだりもした。けれど、たとえ訊いたところで、教えてくれるはずもなかった。訊かずにおいたのはむしろよかったのだ、と思おうとした。
 いまとなっては訊くすべはない。

 ともかく、ヤンソンさんは旅立った。二〇〇一年、宇宙の旅どころか、質料も形相もない、好きだった「真髄(イデー)」すらも存在しない、ほんとうに未知の世界へと行ってしまった。軽い手荷物すらもない、魂ひとつの、かろやかな旅だ。

 かくて、ときにずしりと重く深く心の奥をざわつかせ、ときにやさしくなめらかに心の襞をふるわせる、音素たちや色素たちがさまざまに交叉しあい絡みあって描きだす軌跡が、わたしたちのもとに残された。それらの軌跡にどのような意味をあたえるか、あるいはあたえないかは、ひとりひとりの感受性と志向性にゆだねられているのだと思う。

 世界に先駆けてスウェーデン語から日本語への翻訳というやりがいのある、けれども原稿と結果とにひとりでむきあわねばならない仕事のなかで、わたしがほんの一瞬かいまみた芸術家トーヴェ・ヤンソンの真髄(イデー)を、ほかのだれでもない、このわたしが自分の言葉でいいあらわす。つまり、ヤンソンの人生と作品とをあわせてひとつの物語として語りたい。これが本書の目標である。この試みの成否の判断は読者にゆだねたい。

 ただ、いまは亡きトーヴェ・ヤンソンの自由な魂に、あてにならない記憶ともっとあてにならない記録から紡ぎだした、隙だらけとはいえ情熱ではだれにも負けない本書をささげたい。

 ヤンソンさん、どうぞ、よい旅を。

        二〇二五年二月
               冨原眞弓

【「まえがきにかえて」からの抜粋はこちら

『トーヴェ・ヤンソン』目次

序章 ムーミン谷の成分表
第1章 すべてはパリから始まった――一九〇五‐一四年(〇歳)
第2章 ヘルシンキにトーヴェと戦争がやって来た――一九一四‐一八年(〇‐四歳)
第3章 ヘルシンキのアトリエで育つ――一九一八‐三〇年(四‐一六歳)
第4章 シグネの仕事を引き継いでいく――一九三〇年(一六歳)
第5章 ペッリンゲの島でママとパパと夏をすごす――一九二〇‐三〇年(六‐一六歳)
第6章 ストックホルムで愉快な叔父たちとくらす――一九三〇‐三三年(一六‐一九歳)
第7章 テクニスで技術と自由を得る――一九三〇‐三三年(一六‐一九歳)
第8章 アテネウムが分断されていく――一九三三‐三七年(一九‐二三歳)
第9章 芸術家になりたい――一九三三‐三七年(一九‐二三歳)
第10章 パリとベルリン、ふたつの衝撃に見舞われる――一九三四年(二〇歳)
第11章 パリに留学しセーヌ左岸に両親の足跡を追う――一九三八年(二三‐二四歳)
第12章 パリでアトリエを選ぶ――一九三八年(二三‐二四歳)
第13章 ブルターニュの島で絵を描く――一九三八年(二三‐二四歳)
第14章 ひとりでイタリアを旅する――一九三九年(二五歳)
第15章 『ガルム』でスターリンとヒトラーを描く――一九三九‐四五年(二五‐三一歳)
第16章 戦争が始まり、友人は決意する――一九三九‐四五年(二五‐三一歳)
第17章 家族がしずかに壊れていく――一九三九‐四五年(二五‐三一歳)
第18章 仕事第一主義をあらためて決意する――一九三八‐四四年(二四‐三〇歳)
第19章 小さなトロール、世に放たれる――一九三九‐四五年 (二五‐三一歳)
第20章 アトスと出逢い、言葉にめざめる――一九四三‐四七年(二九‐三三歳)
第21章 ヴィヴィカと出逢い、トリオが右往左往する――一九四六‐四八年(三二‐三四歳)
第22章 トゥーリッキとあたらしい世界へ――一九五五‐七〇年(四一‐五六歳)
第23章 シグネの旅立ちとムーミン谷の終焉――一九七〇年(五六歳)
あとがき

トーヴェ・ヤンソン作品および評伝 邦訳一覧
図版出典
編集附記

冨原眞弓のトーヴェ・ヤンソンとの交流

1989年8月 ストックホルムの書店でムーミン物語に出会う
1990年2月 トーヴェ・ヤンソンに未邦訳作品を翻訳したいと手紙を出す
1990年3月 ヤンソン来日、ホテルで初対面をはたす
1991年3月 ヘルシンキのアトリエにヤンソンを訪ねる
以降、毎年二度のペースでヘルシンキに行き、アトリエに通う
1991-99年 『彫刻家の娘』、『小さなトロールと大きな洪水』、「トーベ・ヤンソン・コレクション」全8冊、『島暮らしの記録』などを翻訳出版
1999年12月 ヘルシンキのアトリエにヤンソンを訪ねる。これが最後の訪問
2001年6月 トーヴェ・ヤンソン永眠

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ