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「トーヴェ・ヤンソン」書評 自分であろうとする真随に共感

評者: 石井美保 / 朝⽇新聞掲載:2025年09月27日
トーヴェ・ヤンソン ――ムーミン谷の、その彼方へ (単行本) 著者:冨原 眞弓 出版社:筑摩書房 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784480839084
発売⽇: 2025/07/10
サイズ: 18.8×2.6cm/434p

「トーヴェ・ヤンソン」 [著]冨原眞弓

 ヤンソンの作品を数多く翻訳し、日本に紹介してきた著者による、本格的な評伝だ。
 本書の起点となるのはムーミン物語の誕生をめぐる謎である。一九三九年、気鋭の画家だったヤンソンは戦時下になぜ、子ども向けの物語を書いたのか。この謎を解くために、著者はヤンソン一家の歴史を繙(ひもと)いてゆく。
 彫刻家の父と挿絵画家の母、トーヴェと二人の弟。一家の立場を規定していたのは、フィンランドの言語少数派であるスウェーデン語系共同体に属していたことだ。くわえて、一九一八年の内戦での父の従軍経験が、家族に暗い影を落とす。
 理想主義的で自分本位な父と、家族のケアと家計を担う母。ともに芸術家である両親のジェンダー格差は否めない。それをつぶさに見ながら、トーヴェは早熟な画家かつ作家へと成長していく。
 若き日のトーヴェの日記や手紙を渉猟し、その心情を掬(すく)いとる著者の手際を通して、彼女の矜持(きょうじ)と葛藤、強さと繊細さが見えてくる。トーヴェの抱える痛みと子ども時代への追慕こそが、不穏な世界の中で小さな生きものたちが寄り合い、気弱なままで冒険するムーミン物語の土壌となった。そう著者は読み解く。
 印象的なのは本書の筆致だ。歯切れよく軽妙で、味わい深い。それは著者が、ヤンソンの作品との対話を通して彫琢(ちょうたく)し、日本語版「ムーミン語」として創り上げてきた、無二の文体ではなかったか。原作者と翻訳者の幸運な邂逅(かいこう)から生まれた、独自のスタイルの妙に感じ入る。
 そして何より、本書の底を流れるのは、ヤンソンの生き方への深い共感だ。自分自身の真髄(イデー)をもち、それを抑圧するものを拒否し、茶化し、すり抜ける。己の弱みを知りながら、それでも自分であろうとする。声高には語られていないけれど、本書から滲(にじ)み出るのは著者のイデーでもある。ヤンソンと冨原眞弓。類い稀(まれ)な二人の、魂の共鳴から生まれた作品である。
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とみはら・まゆみ 1954年生まれ。聖心女子大名誉教授(フランス哲学)。著書に『ミンネのかけら』など。今年2月死去。