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トーヴェ・ヤンソンはなぜムーミン物語を描いたのか―― ヤンソン研究の第一人者による、遺作にして決定版評伝

記事:筑摩書房

トーヴェ・ヤンソンと冨原眞弓。1995年9月、ヤンソンのアトリエにて。
トーヴェ・ヤンソンと冨原眞弓。1995年9月、ヤンソンのアトリエにて。

 だれもが一度は子どもだった。そして、ときどきその時代を思いだす。あるときはノスタルジーをこめて。あるときはルサンチマンをこめて。文才に恵まれているならば、その思い出を文章にするだろう。時代にからめた回想録か、内省的な日記か、軽妙なエッセイか、あるいは純然たる創作と称されうる小説か――。トーヴェ・ヤンソン(一九一四―二〇〇一)はおおむね最後の表現様式を選んだ。
(……)

自分のために書く

「なぜ書くのか」という問いに、「狡猾な」児童文学作家ヤンソンはクールに忍耐づよく、しかしきっぱりと答える。「つぎからつぎへと子どもの本を書くからといって、もっともらしい理由などひとつもない」。作家は書きたいから書く。書かずにはいられないから書くのであって、もっといえば、小さな子どもに娯楽や教育を与えるためではなく、一義的には自分のために書く。よって、「しかるべき児童文学は、さまざまな象徴や自己同一視や自己執着にみちていて、幼い読者とはほとんど関係がない」のだと。

 児童文学作家は、一見したところいかにも屈託ないようすで、あちらこちらで坐りこみ、心の奥底のモチーフを隠すのに余念がない。
 すこし近づいて見れば、それほど屈託なくはないとわかる。
 かわいそうな子どもたちをこのうえなく不埒なやりかたで利用してきたのだ。その子どもっぽいカムフラージュの下に、怖るべき自己への専念という深淵がかいま見える。「狡猾な児童文学作家」

 児童文学作家はヤンソンによると無邪気とはほど遠い。子どものためと言いながら自分のことしか考えていないのだから。
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 ヤンソンは一人称の自伝は書かなかった。だが、創作に自伝的要素の虚と実を絶妙なバランスで混ぜこみ、あいまいでポリフォニックな「自分語り」を完成の域に高めた。ムーミン物語の第三作『ムーミンパパの思い出』で、息子のムーミントロールやスニフやスナフキンら子どもたちに読み聞かせるパパの回想録は、ある意味でその完成形だ。若き日のムーミンパパは、「人魚姫」「鉛の兵隊」「夜啼き鳥」「アヒルの子」「影」といった陰影のあるアルター・エゴを生みだした詩人アンデルセンの直系ではないか。

作者とその分身たち

 アンデルセンもヤンソンも素朴な口ぶりでカムフラージュされた「自分語り」をやってのける天才だった。かくて作家のエゴイズムが吐露される。このやむにやまれぬ欲求が再現をめざすもの、それは自身の子ども時代の記憶や心象風景、すなわち「自身のなかの子どもっぽさ」にほかならない。それは「さまざまな象徴や自己同一視や自己執着」とも表現されるものだ。
 であるならば、ムーミントロールにかぎらず、ムーミン物語のほとんどの生きものたちは、ある一時期、なんらかの意味で、代わる代わる、作者ヤンソンの分身を演じていると考えられよう。おそらく少数の例外をのぞいて。後述するが、ムーミン物語の主要な生きものでほぼ完全に対象化されているのは、ムーミンママ、スニフ、トゥーティッキ、くらいで、作品によって描写がやや異なる、ニョロニョロとスナフキンは境界線上にある。
 ヤンソン作品は虚実の混ざりぐあいの差こそあれ作者の分身であふれている、といっていい。「ムーミントロール」「ちびのミイ」「トフスラン」「トフト」は確実にヤンソンの一面を具現化する。読み解くべき資料にはこと欠かない。たとえば、友人や近親者の証言、新聞・雑誌のインタヴューや記事、日記や制作日誌等の雑記、書簡集、広義の自伝的資料である。スクルットおじさん、スナフキン、さまざまなホムサたちといったボヘミアンはむろんのこと、むだにきれいずきのフィリフヨンカたちや大言壮語のヘムルたちさえも、ときにはヤンソンそのひとになり代わる。
『ムーミンパパの思い出』のパパは作者ヤンソンのすぐれた代弁者として、みずからの出生のドラマ、星に定められた運命、自我の芽生え、創作への憧れ、放浪、冒険、孤独、挫折、友情、そしてムーミンママとの出逢いを、とくとくと語っている。一九六八年に改稿された決定版の『ムーミンパパの思い出』では削除されたが、一九五〇年出版の原型『ムーミンパパの手柄話』では八月九日が誕生日と示唆される。いうまでもなくヤンソン自身の誕生日だ。
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 ムーミン谷の生きものの多くがヤンソンの分身であるなら、ムーミンの家族とヤンソンの家族がかさなるのではと、どうしても思いたくなる。もっともヤンソン自身は「かれらのだれかと自分を同一視したことはない」とのべ、現実と虚構を短絡的に結びつける読みを拒否する。と同時に、「そうはいっても、あちらこちらに自分がたくさん散らばってもいる。作家が書くもののすべてに作家の一部が認められるように」と譲歩もする。

『ムーミンパパの思い出』表紙
『ムーミンパパの思い出』表紙

母と父と子――三人の〈聖家族〉

(……)
 いずれにせよ、子どものトーヴェが経験した家族のありかたが、後年、ムーミンの家族の原型となったことに、異論の余地はない。ムーミンママのモデルが母シグネ(一八八二―一九七〇)であることは、作者みずからがおりにふれて言明してきた。ついでに、シグネのほうが「はるかに陽気で、寛大で、遊び心がある」とつけ加えるのも忘れない。
 ヴィクトル(一八八六―一九五八)がムーミンパパのモデルかどうかについては、さほど自明ではない。作者がヴィクトルを名指ししたことはない。意図的に避けていたのか。おなじ記事でヤンソンは、「ムーミンパパは、男性のどうしようもない面の人格化で、いつまでも完全にはおとなにならない少年だ」と定義している。おっちょこちょいで、ひとりよがりで、メガロマニアで、ともすれば自爆するコミカルなムーミンパパを、彫刻家ヴィクトルの実像にかさねるのはためらわれたのか。

虚実の境界領域に現われるトーヴェ・ヤンソン

 ムーミン谷にひとまず別れを告げたヤンソンは、二年後の一九七二年に「自由とはなにか」という記事で、ムーミンの家族のことをこう説明している。「しあわせであることがあまりにもあたりまえすぎて、自分たちがしあわせだということさえ知らない」。かれらのしあわせは、「ひとりでいる自由、自分だけの考えにひたる自由、だれかにうちあけたいと思うまでは、自分の秘密をあかさずに隠しもつ自由」から構成されていると述べ、ややとぼけた口調でこうしめ括る。

 このユートピア的ともいうべき家族を、わたしはなにかしら敬意と驚きに近い感情でみつめてしまう。しかも、かれらがこの絶対的な自由をどのようにして手にいれたのかを、うまく説明できずにいる。「自由とはなにか」

 たとえ作者であっても、このユートピア家族のすべてを了解できるわけではない、かれらには固有の生命力と存在様式がある、もはや作者の想像力の枠をこえて生きているのだ、とでもいいたいのだろう。
 どこまでが事実で、どこからが虚構なのか。これを問うてもあまり意味はない、と示唆していると考えることもできよう。創作は創作として評価すべきであって、モデル探しに意味があるとは思えないとも。だから、これまでわたしは、虚と実とを必要以上に同一視する読みを避けてきた。しかし、近年あらためてヤンソン作品を読みなおすうちに、作品のいたるところに、作者のアルター・エゴが見え隠れする気がしてきた。したがってヤンソンの生涯を語ることは、ひるがえって作品を語ることであり、逆もまた真であろう。と同時に、物語の内的ロジックを分析するさいに、作者の生とからめる解釈のさじ加減に細心の注意を払いたいと思う。虚と実の交わる境界領域にこそ、作者トーヴェ・ヤンソンのひととなりが現われでるかもしれない。
 もとより、どんな作家でも大なり小なりそうなのだが、トーヴェ・ヤンソンという作家はとりわけ自己イメージの表象にこだわった創作者ではないのか。そして、それらは子ども時代の家族の表象、というより、きわめて明確な意図をもって再構築され、しかもいかにも無造作で自然な印象を与えるまでに入念に呈示された表象と切っても切り離せないと思う。
 なんといっても、ヤンソンが生きた子ども時代の追想なくして、ムーミン谷やその住人たちに生命が吹きこまれることはなかった。よって、まずは虚構のムーミンの家族と実在するヤンソンの家族をかさねることから、ヤンソンの生涯を語ってみたい。

冨原眞弓『トーヴェ・ヤンソン』(筑摩書房刊)
冨原眞弓『トーヴェ・ヤンソン』(筑摩書房刊)

『トーヴェ・ヤンソン』目次

序章 ムーミン谷の成分表
第1章 すべてはパリから始まった――一九〇五‐一四年(〇歳)
第2章 ヘルシンキにトーヴェと戦争がやって来た――一九一四‐一八年(〇‐四歳)
第3章 ヘルシンキのアトリエで育つ――一九一八‐三〇年(四‐一六歳)
第4章 シグネの仕事を引き継いでいく――一九三〇年(一六歳)
第5章 ペッリンゲの島でママとパパと夏をすごす――一九二〇‐三〇年(六‐一六歳)
第6章 ストックホルムで愉快な叔父たちとくらす――一九三〇‐三三年(一六‐一九歳)
第7章 テクニスで技術と自由を得る――一九三〇‐三三年(一六‐一九歳)
第8章 アテネウムが分断されていく――一九三三‐三七年(一九‐二三歳)
第9章 芸術家になりたい――一九三三‐三七年(一九‐二三歳)
第10章 パリとベルリン、ふたつの衝撃に見舞われる――一九三四年(二〇歳)
第11章 パリに留学しセーヌ左岸に両親の足跡を追う――一九三八年(二三-二四歳)
第12章 パリでアトリエを選ぶ――一九三八年(二三-二四歳)
第13章 ブルターニュの島で絵を描く――一九三八年(二三?二四歳)
第14章 ひとりでイタリアを旅する――一九三九年(二五歳)
第15章 『ガルム』でスターリンとヒトラーを描く――一九三九‐四五年(二五‐三一歳)
第16章 戦争が始まり、友人は決意する――一九三九‐四五年(二五‐三一歳)
第17章 家族がしずかに壊れていく――一九三九‐四五年(二五‐三一歳)
第18章 仕事第一主義をあらためて決意する――一九三八‐四四年(二四‐三〇歳)
第19章 小さなトロール、世に放たれる――一九三九‐四五年 (二五‐三一歳)
第20章 アトスと出逢い、言葉にめざめる――一九四三‐四七年(二九‐三三歳)
第21章 ヴィヴィカと出逢い、トリオが右往左往する――一九四六‐四八年(三二‐三四歳)
第22章 トゥーリッキとあたらしい世界へ――一九五五‐七〇年(四一‐五六歳)
第23章 シグネの旅立ちとムーミン谷の終焉――一九七〇年(五六歳)
あとがき

トーヴェ・ヤンソン作品および評伝 邦訳一覧
図版出典
編集附記

冨原眞弓のトーヴェ・ヤンソンとの交流

1989年8月 ストックホルムの書店でムーミン物語に出会う
1990年2月 トーヴェ・ヤンソンに未邦訳作品を翻訳したいと手紙を出す
1990年3月 ヤンソン来日、ホテルで初対面をはたす
1991年3月 ヘルシンキのアトリエにヤンソンを訪ねる
以降、毎年二度のペースでヘルシンキに行き、アトリエに通う
1991-99年 『彫刻家の娘』、『小さなトロールと大きな洪水』、「トーベ・ヤンソン・コレクション」全8冊、『島暮らしの記録』などを翻訳出版
1999年12月 ヘルシンキのアトリエにヤンソンを訪ねる。これが最後の訪問
2001年6月 トーヴェ・ヤンソン永眠

ヤンソンさんから冨原さんに送られた手紙
ヤンソンさんから冨原さんに送られた手紙

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