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「映画(シネマ)」でなく「活動写真(シネマトグラフ)」を ──ロベ-ル・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』、訳者・松浦寿輝氏による後記

記事:筑摩書房

『抵抗』、『スリ』から『ラルジャン』まで、傑作の数々を監督し、現代フランス映画史上に屹立する巨匠ブレッソン。四半世紀にわたり、演出のかたわらで彼が綴りつづけた《映画=シネマトグラフ》への、叡知にみちた言葉たち。
『抵抗』、『スリ』から『ラルジャン』まで、傑作の数々を監督し、現代フランス映画史上に屹立する巨匠ブレッソン。四半世紀にわたり、演出のかたわらで彼が綴りつづけた《映画=シネマトグラフ》への、叡知にみちた言葉たち。

 詩人や芸術家に冠せられる場合には、どこか揶揄の混じった胡散臭い響きを帯びないわけにいかなくなってしまった「孤高」や「潔癖」や「厳密」といった形容が、今日もっともふさわしいのは映画監督ロベール・ブレッソンであるかもしれない。ブレッソンは、実際、マサッチョのように孤高でありフェルメールのように潔癖でありセザンヌのように厳密である。ドビュッシーのように孤高、ハイドンのように潔癖、バッハのように厳密と言ってもいいかもしれないが、本来、雑駁(ざっぱく)さの産み出す豊饒こそがその生命であって然るべき映画という芸術の集団制作の場に身を置きながら、こうした孤独な禁欲の倫理を貫き通しているという点に彼の作品の不思議があり、尋常ならざる困難があり、またその貴重このうえもない歴史的な意義があるだろう。『抵抗』や『スリ』から『バルタザールどこへ行く』『少女ムシェット』『白夜』を経て『ラルジャン』に至るまで、どの一篇のフィルムを取ってみても、そこにはこの不思議と困難と史的──史的であって、決して現代的、、、ではない──意義とが、まるで鉄筆で刻みつけるようにして深く鋭く印されている。そして、本書『シネマトグラフ覚書』は、長年月にわたる作品史と併行しつつその同じ鉄筆で一ページごと鏤刻されていった倫理の書なのだ。

 本書に集められている倫理的な断想は、第一部が1950年から58年までの8年間、第二部が1960年から74年までの14年間、合わせて何と22年間にわたって折りに触れ書き留められ書き継がれていったものである。しかも、その間ブレッソンの思索に目立った変化なり展開なり深まりがあったようには見えない。延べにすれば24年間に及ぶこの歳月をかけて、彼はただ一つのことを蜿蜒(えんえん)と考えつづけてきたと言ってもよい。実際、この小さな書物の全ページを貫いている主題はただのひとことに要約できる。歴史の中に記載されてはいるが現代フランス語の語彙においてはもはや一般的に流通してはいない一語、つまり題名に含まれる「シネマトグラフ」がそれである。19世紀末の映画創生期にルイとオーギュストのリュミエール兄弟が発明した撮影=映写一体型の神話的装置の名称を、ブレッソンはみずからの芸術を名づけるために改めて甦らせようとする。そこには、この技術的な発明が新たに切り開いたはずの創造的可能性を、真に豊饒な表現として結実させることに成功しえず、演劇のような19世紀以前の旧ジャンルとなし崩しに妥協させてきてしまった制度的な映画史に対する、彼のしたたかな批判と挑発がこめられている。「映画シネマ」でなく「活動写真シネマトグラフ」を──本書の全ページはこの簡潔なマニフェストをめぐって旋回しているのである。

「シネマ」すなわち「撮影された演劇」、と彼は繰り返す。俳優たちが舞台の上で演じるいわゆる劇場芝居というもの、あれは捏造され誇張された真実味、、、、つまり本当らしさの印象を寄せ集めたところに成立する虚偽の表現である。劇場で見るかぎりではもっともらしく見えるそうした職業俳優たちの演技は、いざ「虫めがねで拡大してみると、歌舞伎役者の過剰さを思わせる」不自然に満ちみちている。「シネマトグラフ」が到達すべきは、真実ではなく真実そのものでなければならない。そのためにはどうするか。俳優ではなく「モデル」を使うことだ、とブレッソンは考える。「モデル」というこの独特の概念に関しては本文に詳しく語られているが、それはむろん最新モードを着こなして広告写真に収まるファッション・マヌカンのことではないし、画家の前で静的なポーズをとることでイメージの素材を提供するいわゆるモデルというのともいささか異なった概念である。それはいわば「コピー」に対立する初源的な「原型」であり、そこから出発して人間的な真実の一面が開示される普遍的な「見本」をキャメラの前に提供する、或る任意の肉体のことだ。真実は、職業俳優の大袈裟な演技の中にではなく、こうした「モデル」たちが自分の意志を越えたところで思わず知らず洩らしてしまう内なる生の秘密の呟きの中に求められなければならない。

 ブレッソンは自動化された=オートマティックなものとなった身振りや声に最大限の価値を認める。肉体は、主体的な意志によって統禦(とうぎょ)された演技の洗練を突き抜けたところで、内なる生の自然=本性が媒介なしに露呈する直接的な無意識の場と化さねばならぬ。ただ単に玄人でなく素人を使えばいいというだけのものではないのであり、あらゆる意図を脱ぎ棄ててこうした至高の自動現象に到達するために、「モデル」たちには自然らしさを装う演技の推敲をはるかに上回る苛酷な試練が課されることになるだろう。その結果、ブレッソンの映画は他の多くのありきたりの映画と比べるとむしろ不自然に見えるという逆説が生じる。職業的な訓練を経ていない「モデル」たちのセリフ回しはしばしば一本調子であり、表情は固く、動作はぎこちない。ブレッソンは大抵の場合、小津安二郎と同じくらい作為的で不自然に見える。だがそれは、「撮影された演劇」でしかない「シネマ」が捏造する自然らしさの幻影を、渾身の力を振り絞って画面から放逐し去った力業の結果にほかならない。見かけの不自然さそのものの内に「シネマトグラフ」の自然がなまなましく露出しているのであり、この自然を通じて、ブレッソンは人間の内的な生の真実と触れあおうとするのだ。

 数えきれない反復による自動化の果てに立ち現われてくる、この模倣不可能な、唯一のものなる自然との遭遇において、ブレッソンが声と音の重要性を執拗に説いているという点もまた、ここで強調しておくに値しよう。「シネマトグラフ」という古色蒼然とした言葉を持ち出すからといって、彼は何も無声映画の昔への回帰を提唱しているわけではない。或る意味で、音は映像よりももっと大きな力を持つと彼は言う。現に見えている以上のものへと想いを誘わないという点で映像は観客を受身の状態にしかおかないが、音は想像力を刺激し能動的に活性化させるからである。ただ汽笛一つを耳にしただけで、人間は一つの駅の全体を、その隅々の細部をすべて引っ括めて思い浮かべることになる。そうした音の強度の裏側には沈黙の強度という体験があるのもまた、言うまでもないことだ。トーキーの発明によって映画に導入されたのは、音響であるよりはむしろ沈黙であったはずだ。安易な音楽の使用を避け、強靭な静寂で全篇浸されたブレッソンの映画空間に、どれほど喚起力のある稀少な音と声とが行き交っているかは誰もが知っている。『ラルジャン』の刑務所の食堂で、大鍋の杓子が投げ出されて床を滑ってゆくあの金属的な響きの産む鮮烈な衝撃を、いったい誰が忘れられよう。

「偽」の排斥、そして「真」への信仰。本書に一貫しているこの求道の姿勢は、ブレッソンのモラルを或る種のプラトニスムの色調で染め上げているように見える。たしかに、これは「偽」の戯れに溺れるソフィストたち──具体的には名指されずに随所でただ「Ⅹ」とだけ呼ばれている──に対する批判の書だとも言える。だが、彼のプラトニスムは、どこかしらの彼岸に位置すべき超越的な真理の光を追い求めようとするものではない。「真」はいつでも、今ここに内在しているのだ。われわれの視線からそれを遮断しているのは、「シネマ」の因習が捏造してきた真実の印象であるにすぎない。そうした虚偽を告発し生のままの自然を追究しようとする姿勢は、常識的に考えればブレッソンをドキュメンタリー作家の道へと赴かせて然るべきものだったろう。しかし彼は「モデル」たちの自動的な声と仕草による虚構劇の造型、という何とも逆説的な企図を生涯手放すことがなかった。飽くまでフィクションを映画化しつつ、しかし画面から徹底的にフィクションを排除しようというこの奇妙な企て。安直な独創性の誇示を彼は嫌っているが、この点においてブレッソンの作品群は映画史上唯一無二の特異な試みとして屹立していると言っても過言ではあるまい。本書の記述は、映画作家としての彼の仕事のそうした独創的な志向を鮮明な光によって改めて照らし出すことだろう。

 だが、ブレッソン自身の「シネマトグラフ」を闡明(せんめい)している点ばかりに本書の意義があるわけではない。これはまた、著者が愛読していると覚しいモンテーニュやパスカルの文章を思わせるモラリストの書でもあり、映画という特殊なジャンルを離れて、表現と感覚と労働とをめぐる、さらにはもっと広く人間の生の在り様そのものをめぐる、観察と瞑想の記録としても読める書物である。そうした省察を展開するブレッソンの文体は、農民的、、、とでも言ったらよいのか、機智をひけらかす洒落たアフォリズムといったものとは飽くまで異なる素朴なエクリチュールであり、華やかな才気といったものとは無縁であるかわりに、不器用さや武骨さの印象がむしろ積極的な魅力となっているといった風情の独自なリズムをもっている。迂回や繰り返しがもどかしい箇所があるかと思うと、含意をすべて断って観念の骨だけがぶっきらぼうに提示されている箇所もあるといった具合の、なかなかみ下しづらくはあるが、ゆっくりと時間をかけて嚙み砕き咀嚼するに値する文章だと言える。たとえば、「君に見えているものを人々に見させること、それも、君が見ているようにはそれを見ていない機械を間に介して」(104頁)といったような言葉のリズム──「見る」という動詞が四回繰り返されている──には、大地に鍬をがっし、がっしと打ちこんでゆくような力強い手応えがありはしないか。しかもブレッソンは、これにわざわざ註を付して、「そして、君に聞こえているものを人に聞かせること、君が聞いているようにはそれを聞いていないもう一つ別の機械を間に介して」、と念を押すのだ。これはこれで一つの個性的で見事な文体と言わなければなるまい。そして、それがそのままブレッソンの映画作品の文体と通じあっていることは言うまでもない。

 飽くまで現実的な肉体労働を通じて鍛え上げられていった、いわば手仕事的、、、、な知性の姿がここにはある。手と一体となった知が働いているのだ。それはブレッソンが、一方で畑を耕し他方で読み書きもする知的な百姓、、、、、だといったことではない。ここでは鍬で土を掘り起こす仕事がそのまま知の営みそのものとなっているのである。彼は握り締めた鍬を振うようにしてキャメラを回し、そしてまた、ペンを走らせる。映画論ではありながら、本書には個々の具体的な作品名には全くと言っていいほど言及していない。その結果、本書は労働と創造をめぐるほとんど抽象化された倫理的な方法論の書と化している。キャメラとテープレコーダーという二つの機械によって認識を鍛え上げていった一つの特異な知性が、世界に対してどのように働きかけそれをどのように変えてゆくことができるかという普遍的かつ実践的な課題に関する真摯で執拗な考察を、あたうるかぎり簡潔な筆遣いでもって展開しているのである。

 この倫理と方法は、「孤高」と「潔癖」と「厳密」に結晶してゆくとことん禁欲的なものではあるが、と同時に、それが決して感覚的な快楽を排するような性格のものではないという点を最後に強調しておきたいと思う。ル・クレジオも言うように、徹底的な正確と倹約をめざすこのほとんど宗教的とも言うべき精神のもう一つの半面には、逸楽へと向かう官能的な傾斜が隠されている。自分自身が何を欲しているかわかっていない観客に、「君の意志、君の快楽を押しつけてやれ」(171頁)。本書の全ページを通じてなまなましく脈搏っているのは、ブレッソンのこの堅い意志と深い快楽の交錯が作り出すモラルの波動なのである。

ロベール・ブレッソン著/松浦寿輝訳『シネマトグラフ覚書──映画監督のノ-ト』(筑摩書房刊)
ロベール・ブレッソン著/松浦寿輝訳『シネマトグラフ覚書──映画監督のノ-ト』(筑摩書房刊)

ロベール・ブレッソンによる思考と実践の結晶。撮影現場に向かう電車で、毎朝この本を開くのが私の習慣だった。数百の断章から成る本書は、読む者に永遠の発見を約束する。──濱口竜介さん(映画監督)『シネマトグラフ覚書──映画監督のノ-ト』帯より

『シネマトグラフ覚書──映画監督のノ-ト』目次

序言(J=M・G・ル・クレジオ)
シネマトグラフ覚書──映画監督のノ-ト
Ⅰ 1950‐1958
Ⅱ その他の覚書 1960‐1974
訳者あとがき
ロベール・ブレッソン・フィルモグラフィ

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