ある日得体の知れない存在にされる恐怖――「近代天皇」の究極のカリスマ化
記事:明石書店
記事:明石書店
日本の近代とは何であったのか。それは大日本帝国の最上位に天皇を戴きながら、帝国臣民を序列化していく過程だった。これは「一君万民」と呼ばれる我が国の政治体制の中で絶対的な<理>であった。
明治時代において博徒は政敵であった。しかし、江戸時代において庶民の間で博打は流行していた。1860年代に欧米社会から新しいタイプの賭博がやってきた。それが「近代(洋式)競馬」だった。突然、天皇を含む日本の為政者や日本の庶民は競馬に巻き込まれた。日本の競馬ファンの始まりは横浜村に住む貧農やえた・非人出身者であった。
欧米列強が伝えた近代競馬は「ツール」として発展していった。明治新政府は、近代的な君主像を国内外にアピールするために競馬が使えると考えた。また、不平等条約改正のために欧米の一流紳士(ジェントルマン)が集う競馬には利用価値があると判断した。ここから天皇による競走が始まることになる。
横浜根岸競馬場で「天皇花瓶競走」が始まったのは1880年のことで、その8年後に横浜で公式に馬券が発売されるようになった。こうして天皇は「ギャンブルを振興するミカド(帝)」となった。日本の庶民は競馬を振興する天皇の姿を浮世絵や都市新聞などで摂取していった。下層民が公認の賭博に寄せる期待は大きかった。
政治外交目的の競馬は、不平等条約改正の見込みが立つと終わりを迎えた。また、1900年頃には天皇が競馬場から姿を消したと同時に東京・横浜周辺の競馬は壊滅状態となった。原因は、治外法権である横浜以外の競馬場では公式に馬券が売られていなかったためである。またこの頃には過度の欧化政策の反動で、競馬のイメージも悪くなりつつあった。
社交の競馬が終わり、20世紀になると別の理由から競馬が必要とされた。それは日清・日露の苦い経験から、軍馬育成のための競馬事業が必須課題になったのである。1904年に陸軍に背中を押される形で「天皇の勅諚」が発表された。こうして競馬事業に「錦の御旗」が掲げられ、馬券の黙許時代が始まった。
馬券黙許時代は賭博の熱狂時代であった。このわずか2年の競馬は「無制限」に馬券を購入することができたので、庶民の生活は破綻することになった。日本競馬はこの時代に「偽・悪・汚(穢、醜)」を経験した。それは丸山眞男の「真・善・美」たる大日本帝国(『超国家主義の論理と心理』)と反対の出来事であった。1905年に現在の「天皇賞」の前身である「帝室御賞典」が横浜で始まったが、そこに天皇の姿はなかった。
馬券黙許時代が終わり、馬券が売られない補助金競馬時代が始まった。この時代に「ギャンブルの亡霊」が日本全体を覆った。北は札幌から南は小倉まで7つの競馬倶楽部主催による年間10レースまで成長した亡霊の名は「帝室御賞典」といった。この競走を支えたのは全国各地の競馬場に足繁く通った大日本帝国の臣民(「帝国の賭博者」)だった。
「帝国の賭博者」は、逃避の場である競馬場で天皇による競走を支えた。かつて私的欲望を露わにした馬券黙許時代の思い出が彼らの心をつかんだ。天皇の姿は眼前にはないが、かつて天皇は「ギャンブルを振興したミカド」であり、我らの「悪のカリスマ」だった。また、偶然性を司る近代的な君主のようにも見えた。
1923年に旧競馬法が制定される。これによって馬券が正式に認められるようになった。競馬法を推進したのは陸軍や競馬関係者だった。これは「上から」競馬を与えたというよりも「下の」庶民による馬券購入を制限した法律であった。為政者にとっても「帝国の賭博者」は必要な存在だったのである。
1930、40年代になると天皇はますますカリスマ化してしまった。天皇は『国体の本義』や『臣民の道』で道徳的な存在とされ、善を導く存在となった。一方で、競馬場の中では「競馬=ギャンブル(賭博)=悪」のカリスマだった。しかも、偶然性を司る「偶然帝」としての資質を秘めており、近代日本の博打的な傾向(一億総玉砕)に少なからず影響を与えたに違いない。皮肉なことに天皇の究極のカリスマ化を推し進めたのは万民の側であった。