日常のありふれたすれちがいの裏側にある男性側の思考を分析 清田隆之『よかれと思ってやったのに』【前編】
記事:晶文社
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桃山商事で聞く女性たちの話には、このような男性たちのエピソードが頻繁に登場します。いかがでしょうか。どれか思い当たるものはありますか? 私の場合は洗いものです。早く終わらせたい気持ちが先行するあまり、洗い方がやや適当になってる感が正直あるので、のっけから気が重くなっています。
職場のイライラから生活でのモヤモヤまでさまざまなエピソードがありましたが、これらの問題はどこにポイントがあるのか。女性たちから聞こえてくるのは「なぜあんなにも適当で大雑把なのか?」という声です。
適当で大雑把……概ねこれらはネガティブな意味で使われる言葉ですよね。おつかいを頼んだのに適当なものを買ってこられては料理のプランが狂うだろうし、食器を大雑把に洗われたらやり直しの二度手間が発生しかねません。適当で大雑把は確かに問題です。
ただし、ここで考えたいのは個人の「性格」や「資質」の話ではありません。事例をよく見てみると、これらはすべて「他者との関わりが発生するシーン」で起こっている問題であることがわかります。極端な話、個人の領域であれば、靴下を脱ぎっ放しにしようが、どれだけお皿を適当に洗おうが、それは当人の自由であり、他人に口を出される筋合いはないでしょう。
しかし、恋人や家族、友人や職場の人など、他者の関わる場面になると話は変わってきます。適当で大雑把な行為のツケが誰かに回ってしまう可能性があるし、たとえ自分としてはきちんとやったつもりでも、それを他者がどう受け取るかはわかりません。ムカつかれたり愛想を尽かされたりするリスクも伴う問題なわけで……一度、我が身を振り返りながら考えてみる価値はありそうです。
意見を聞かせてくれた女性の一人はこう語ります。
「だらしないのがダメだとか言ってるわけじゃないんです。私にだって適当で大雑把な部分は多々ありますし、生まれ持った性質的に、片づけがどうしてもできないとか、整理整頓が苦手とか、そういうこともあると思います。ただ、職場の男性たちや過去の恋人などを見ていると、自分のデスクまわりはキレイなのに備品の扱いが雑とか、仕事ではキッチリしてる人なのに家だと途端にだらしなくなるとか、そういうところが不思議なんですよね。あと、対策について話し合えないのもイヤだなって思います。ものを出しっ放しにするとか、掃除機のかけ方が雑とか、それ自体は仕方ないと思うんですよ。改善策を考えるなり、『ここは適当でいっか』と落としどころを探るなりできればいいので。でも、男の人たちってすぐ『怒られる!』『責められてる!』って感じて身を固くしますよね。中にはちょっと口を出しただけで露骨に不機嫌になる人もいます。そういう態度を取られると余計に腹立つし、機嫌を取りながら話し合いを持ちかけるのも疲れるし、次第に『もういいや』って、怒りを通り越して諦めの心境になってしまうんですよね……」
ここにはふたつのポイントが含まれているように思います。
これらは「何ごとも適当で大雑把な男たち」の問題点を考えていくための大きなヒントになるはずです。
まず(1)ですが、これは言い換えれば「なぜ面倒を押しつけるの?」という指摘ですよね。適当で大雑把な行為の背景には、「面倒くさい」という感覚が存在しているはずです。椅子をしまう、ドアを閉める、備品を元に戻す、靴下を洗濯カゴに入れる、丁寧にお皿を洗う、頼まれた仕事を正確にこなす……これらはどれも労力を要するものです。つまりエネルギーを使うわけです。適当で大雑把にこなすことは省エネ行為なので、自分自身は楽になります。しかしその結果、行方不明の備品やお皿の洗い残しといった〝ツケ〞が誰かに回ることになります。
考えればすぐにわかりそうなものだよね? どうして自分でやらないの? どれも簡単なことだよね? 誰かが代わりにやってくれてることについてはどう考えてるの? そんなことも想像できないの? それとも「俺の仕事じゃない」くらいに思っているわけ?
……と、女性たちの中には本来、疑問を通り越して理詰めで追い込んでやりたいくらいの気持ちもあったりするようですが、これすらも抑制していると言います。なぜなら(2)「指摘すると機嫌を損ねる」からです。
ここまで散々述べてきたように、ドアの開けっ放しや靴下の脱ぎっ放しが必ずしも悪いというわけではありません。その空間を使用する人たちの間で合意が取れていればまったく問題ないし、「疲れてるときは仕方ない。元気のあるときに自分で元に戻そう」などのルールを設けてクリアすることだって十分に可能です。しかし、そのための話し合いすらできないとなると問題です。責めたり怒ったりしたいわけじゃないのに……なぜ男性たちはすぐに身構えるのか。なぜすぐに不機嫌になってしまうのか。このあたりについて当事者として考えてみることが大事ではないかと思います。
(『よかれと思ってやったのに』より抜粋)
後編に続きます。