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日常のありふれたすれちがいの裏側にある男性側の思考を分析 清田隆之『よかれと思ってやったのに』【後編】

記事:晶文社

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「ともに生きるために必要なコスト」をどう考えるか

 では、「何ごとも適当で大雑把」の事例に思い当たる男性たちは一体どうすればいいか。

 思うにこれは、「ともに生きるために必要なコスト」をどう考えるかという問題に行き着くのではないでしょうか。職場や家庭に限らず、誰かと一緒に過ごすことには必ず面倒がつきまといます。価値観も感覚も習慣も異なる他者との間にすれ違いが生じるのは当たり前だし、その調整にかかるコストもバカになりません。

 しかし、ともに生きていくためには他者とのすり合わせが不可欠です。同じ空間を共有するならば、なるべくみんなが快適に過ごせるような状態を探り、各々がその維持に努める必要が生じます。また、自己責任の範疇からはみ出て、責任の所在が曖昧な事象も頻繁に発生します(例えば共有スペースの掃除や備品の補充など)。そのつど気づいた人がやるのか、それともあらかじめ役割分担を決めておくのか……など、細かく見ていけば調整すべき事柄は無限に見つかります。考えれば考えるほど面倒です。それでもやはり、そこでともに生きていくためには調整やメンテナンスを逐一していかなければならないわけです。

 そういったことを適当に大雑把にやっつけることは、言うなれば「税金を払わない」ことにも似ています。他者にばかり負担を押しつけ、自分は楽を享受するわけで……ツケを払わされることになった人がモヤモヤするのも当然です。

 夫に頼んだ洗濯物が取り込まれていなかったとき、職場の男性が使った湯飲みを洗わずに放置していたとき、「この人はこんな小さな面倒すら負担する気がないんだな」と、結構な絶望を感じている女性は少なくありません。それは面倒を押しつけられたモヤモヤというレベルをはるかに超え、「こいつとはもう一緒に生きていけないな」「こいつには何を言っても無駄だな」「こいつは私の存在を軽く見ているんだな」と、ともに生きることを諦め、心をシャットダウンされることにも発展しかねません。

 ともに生きるためのコストは必ずしも面倒でネガティブなものというわけではなく、それを分かち合う中で連帯感を醸成したり、相手への気配り(=一緒に過ごしたいという意思)を示すためのツールにもなってくれます。そう考えると、調整コストを支払わなかったり、ましてや不機嫌になって話し合いを拒絶したりすることは、実はかなり恐ろしい行為だという風に思えてきませんか? これまで一緒に時を過ごしてきた人々の顔を思い浮かべ、「俺も未払いの税金が結構あるんじゃないか……」と思い当たることがあったら、注意が必要です。

 絶対的な正解はないけれど、必要なコストをできるだけ意識しながら暮らしていく――。

 これが差し当たっての結論になりますが、みなさんはどう思いますか?

『よかれと思ってやったのに』より抜粋

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