1. じんぶん堂TOP
  2. 歴史・社会
  3. 松本卓也+東畑開人 “心の病気”の専門家が語る「わかる」ということ

松本卓也+東畑開人 “心の病気”の専門家が語る「わかる」ということ

写真:柳 裕子

「わかる」とは

東畑:こんばんは。まず僕の感想から始めたいと思います。『心の病気ってなんだろう?』では、「わかる」がテーマになっています。つまり、「精神疾患を持っている人の世界がわかる」のがテーマ。そこには、「わかることそのものがケアになる」という前提があります。

 一般的には、心の治療や援助は、なにかしてあげるとか、なにか介入をすることだと思われがちだけど、その前に「わかる」ことが、すべての援助の根底にあります。そして、それがゴールであることもあります。そういう意味で、「わかる」の治療的価値はとてつもなく大きい。そういうことを伝えるために、この本は「わかりやすく」書かれている。「わかる」の思想に貫かれているのだと思います。

松本:ありがとうございます。そういうふうに読んでもらえると嬉しいです。

東畑:もう一点、すごくよかったと思ったのは、全編に「障害の社会モデル」が貫かれていることです。「障害の社会モデル」とは、問題は個人の心のなかにあるのではなくて、社会のなかにあると考えることです。

東畑:それが「精神病理学」の本でこんなに貫かれているのは珍しいと思いました。

松本:はい、僕は精神障害について哲学などの人文知を参考にしながら論じる「精神病理学」という学問をやっていて、この本も基本的には精神病理学的な話を書いているんですけど、自分のなかではこれまでとはちょっと違うことを書いたぞという気がしています。その一つは、東畑さんが言ってくれた、「わかる」ということを強調したことです。

 治療者や支援者は患者さんがどんなことに苦しんでいるかをわからないとダメだよね、ということは、常識的なことのように思えますが、実はこれまでそういう言説は、主流ではなかったんです。精神病理学では「わかる」ことよりも、「わからない」こと、専門用語では「了解不能性」と言いますが、そちらに主に焦点があてられてきたんです。

 とくに「統合失調症」の人が話すことや症状に関しては、ある程度はわかるんだけど、突き詰めていくとわからないところがどうしてもある。謎めいたものがある、という感じです。その謎をなんとか解明したいけど、どんなに解明しようとしても、その謎は謎のまま残り続ける。謎という了解不能なものがあることを原動力にして、たくさんの言葉を紡いできたのが、精神病理学という学問だったのです。

 もちろん、そのようなやり方にはいい点もありました。それは、安易にわかった気にならない、ということです。「あなたはうつ病だから、大変だね。休んだほうがいいよ」といった浅いレベルのわかり方で済ませずに、うつ病の人は世界をどんなふうに体験しているのかということを、どんどん突き詰めて考える。そうすることによって、かなり緻密なわかり方ができるようになったということが精神病理学の強みでした。

 けれど、あまりにも「わからない」ことを強調しすぎると、患者さんの側は苦しくもなります。医師やカウンセラーにわかってもらえないと、どうしても苦しくなります。ある種の精神病理学は、「了解不能」なものとして遠ざけることによって、患者さんたちを傷つけてきたのかもしれない。それで、「わかる」ということを全面に押し出してみたらどうだろうか? と考えたのがこの本です。

写真:柳 裕子

お互いの心を映す鏡のイメージ

東畑:「わかる」って、ふしぎですよね。考え出すとわからなくなる(笑)。わかるにも色々あります。

 たとえば、患者さんとの最初の面接では、彼らの抱えている問題がよくわかりません。そしてそれはご本人にもわかっていないことが多い。なにかおかしなことが起きていると思って、面接に来られている。でも、話を進めていくと、ある段階で「わかる」がくることがあるんです。

松本:図式が見えてくる。 

東畑:そう、図式が見えてくる。「ああ、それでこうなってるのか、わかった、じゃあ、こうやっていきましょうよ」という話を患者さんにするわけですが、あの「わかる」と、この「わかる」は同じですか? 

松本:僕がこの本で書いている「わかる」というのは、鏡のイメージなんです。つまり、鏡に映すと自分のことが見えてくる。目で見る実際の鏡だと、基本的には自分の姿が映るわけですが、その姿は自分で思っている自分の姿と少しズレていますよね。同様に、診察室のなかで自分のことを言葉を使って語ると、それが鏡に映る――相手に受け取られる――わけです。すると、自分の言ったことと自分の思っていた自分とのあいだにちょっとしたズレが生じてくる。そのなかで、「あ、自分ってこうなんだ」ということがわかる。そういう意味での鏡です。

 さっきおっしゃった、話を聞いているうちにパッと図式が出てくるというのは――。

東畑:メカニズムですね。

松本:フローチャートみたいな見取り図ができるというわけですね。この患者さんはこうなってこうなってこうなってるとか、あの症例のここの部分に似てるとか。

 その「わかる」は、僕の言っている鏡の効果とは少し違うかもしれませんが、図式でわかった瞬間って、多分患者さんの側にもある程度つながっていて、なんで苦しいのかわからないという状態だった患者さんが、自分のことが図式化されて、それだけでも苦しみが少し減るということがあるでしょうね。

東畑:もう一つは長く面接をやっていくなかで、いつも語られている「つらいんです」「死にたいんです」という言葉の意味が、あるとき「わかる」ということもありますよ。パッと。「ああ、そうか、そういうことを訴えていたんだ」と。それはさっきの鏡系ですか?

松本:鏡系ですね。相手の言っていることを受け止めてなにかを返す、というプロセスのなかで、こっちに「わかった」という感覚が生じたときに、患者さんの側にもなにか「わかった」ということが生じるということが大事だな、ということです。

東畑:治療でいうと、最初のころは「わかる」をうまく返せないと思うんです。というのも、「わかった」ことが、治療者の中で言葉になってないときもあるし、言葉になっていても、そのまま伝えても伝わらないことが多いからです。患者さんの中で治療者の「わかる」が受け入れられるようになるのにも時間が必要です。

 それでも治療者が「わかる」ことには意味がある。というのも、抱える環境ができるからです。「わかる」ことによって、面接で患者さんと一緒にいられる力が強くなると思うんですね。

松本:なるほど。心理学では、よく「共感」という言葉が使われます。僕が医学部の学生だったとき、医療面接の基本みたいな授業で、「共感が大事だ」とだけ教わりました。ビデオ教材なんかもあって、患者さん役の人が「こんな症状があって〜」という話をしたら、医師役の人が「はー、それはおつらいですねぇ」という(笑)、ほとんど冗談みたいなやつなんですが、それではダメなんですよね。

 僕はだいたい、患者さんから話を聞いて、「そういうことか」とわかったら、「それがあるんだったら、こういうこともあるよね」という感じのやり方で返します。一つのことを聞いたら、それをちょっと横にズラして話す。

東畑:わかります。

松本:患者さんが「それは無くて」と言ったら、「ああ、むしろこっちですか?」というふうにやっていく。そうすると患者さんがつかっている一つ一つの言葉の広がりが見えてきます。患者さんの言っている言葉や苦しさを、横に広げていくことによって全体像が見えてくる。それがわかるということですね。

東畑:そのとき、「わかる」が可能になるとはどういうことなのでしょうか。たとえば「うつ」とか「躁」とか、カテゴリーがあって、そのカテゴリーに含まれるものを知っていることによって、「わかる」というのもありますよね。

 だから松本さんのおっしゃる「鏡」って、個別性のメタファーだと思うんだけど、個別性はいかにしたら「わかる」のかということにおいて、実はカテゴリーが大事なのではないかと思うのだけど。

松本:個別性については、僕は精神科医で、病気を治すという至上命題がどうしてもあって、そのためにはまず診断をしないといけない。心理士の東畑さんの場合は、患者さんの個別性を早い段階から見ていくということがあって、その違いもありそうですね。

 僕の場合はまずカテゴライズして、その枠のなかで、そのカテゴリーの枠に収まらないところがだんだんと見えてくる。おっしゃるとおり、カテゴリーにもとづいた治療の進展のなかで、個別性が見えてくるということはよくあります。

 この本は疾患別ですから、カテゴリーにもとづいたわかり方の話を書いています。カテゴリーをわかるためには、先にそれぞれのカテゴリーの病気についてのデータベースがないといけない。患者さんが「こういうつらいことがある」と言ったときに、「それがあるんだったら、隣りにこれもあるんじゃない?」というような辞書をいっぱい持っていないと、まずカテゴリーがわからない。

東畑:僕は個別性で「わかる」ということが、いまだによくわからない。臨床心理学では個別性ということをものすごく大事にしていて、それは本当に大事だと思っているんですけど、人をまったく個別で理解するってできるのかって言われると、よくわからなくなるんです。もちろん、面接を重ねる中で、その人らしさは見えてはくるんですけど、そのとき僕はどう理解しているかというと、いくつかのカテゴリーをその人のなかに見て、その配分を見ている気がするんです。この人にはうつのところもあるけど、破壊的なところもあって、でも非常に健康な部分もあるとか。

 松本さんも、この本では、ふつうの人のなかにある病気の部分に向けて、言葉を発していますよね。病気の人が特別に存在するということではなく、みなさんのなかにも統合失調症的な部分とか、うつ病的な部分がありますよね、という書き方になっています。治療的な理解ってそういうものなんじゃないかなと思っています。心のなかに病気の部分と健康な部分があって、それがせめぎ合いながら、僕らの心が動いているみたいな。「力動的」というのは本来そういう意味だったように思うんです。

(つづく)※2019年12月12日発売、平凡社の総合文芸誌『こころvol.52』に完全版を掲載