“ひきこもり”になるのはなぜ“良い子”なのか? 『承認をめぐる病』より
記事:筑摩書房
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「手のかからない良い子」という常套句がある。ひきこもり事例の両親から話を聞いていると、しばしばこの常套句に出くわす。この種の表現は、たとえは悪いが事件の犯人の近隣住民が、インタビュー場面で口にする「とてもそんなことをするような人には見えなかった」といった言葉と同程度には紋切り型である。
子育ては常に物語性を帯びている。ここでいう「良い子」とは、しばしば「記憶の中の良い子」イメージである。記憶はしばしば事後的に加工され、はなはだしきは捏造される。成功者の母親は、しばしば過去の問題について語るだろう。「昔はさんざん苦労させられたけれど、今は立派になって……」と。ここには成長という物語があり、主役は晴れて養育に成功した母親だ。
ならば逆の場合もあろう。現時点での不適応は、常に過去の適応と対比される。「あんなに良い子だったのに……(今はダメになってしまった)」という悲劇の構造だ。「良い子バイアス」と名づけたいほどの紋切り型が定着したのは、ひとつにはこうした背景があるのではないか。
加えて、いまや70万人ともいわれるひきこもり全体に、こうした「『良い子』→ひきこもり」のモデルが該当するわけでもない。問題の規模はもはや若年ホームレスや不登校などと同様に、社会的排除と呼ぶべき規模に至っており、「良い子」の問題はありうるとしてもその一部に過ぎないことは確認しておこう。
しかしだからといって、ひきこもり臨床において「良い子」が問題ではない、という意味ではない。
「良い子」という常套句が、語り残された多くのものを隠蔽している可能性については、神田橋條治がすでに指摘している。誰にとって、どのような意味で、「良い子」だったのか。その内実はあんがいさまざまだ。
われわれがイメージする「良い子」、さらに詳しく言えば「手のかからない良い子」とは、どんなものなのだろうか。
すぐに浮かぶイメージは、大人しく従順で、それほど自己主張はせず、勉強などやるべきことは大人から言われる前に進んでこなし、家事なども積極的に手伝う、というあたりだろうか。
しかし、それだけでは十分とは言えない。良い子の必須条件とは、まず第一に対他的配慮である。「周囲の大人たちが自分をどう見ているか」を客観的に判断し、大人の期待に先取り的に答えていくこと。自分を取り巻く“空気”の内実を瞬時に察知するだけのアンテナを鋭敏にはたらかせること。そうした身振りが半自動的に身についてしまっていること。
「自分に許される振る舞い」の範囲は、周囲の思惑よりも少しマージンを多めに取ることになるだろうから、その子は必要以上に控えめで内省的にみえるであろう。言うなれば、この子たちの関心事は、ほとんど常に親の願望や欲望に向けられることになるのである。関心事であるばかりか、彼らの欲望は、ほとんど親のそれと同一化してしまっていることすらしばしばある。
このような彼らの身の処し方は、見かけ上、アダルト・チルドレン(AC)のそれによく似ている。一言でACと言っても、いろいろな特徴があるが、病理的な意味での「良い子」に共通する項目には、おおよそ以下のようなものがある。
自己信頼感の欠如、自分を認められない、対人不安、自己批判、対人依存、不完全感と完璧主義、過剰な責任感、べき論と低い受容性、思考の二極化、自己関連づけ、マイナス思考、判断に自信がない、断れない・頼めない、怒りの衝動、漠然とした不安感や空虚感などなど。
ここでは特に「過剰な責任感」に注目したい。ACにおいては「自分の負うべき責任の範囲がわからなくなる」という傾向が指摘されている。その結果、この世界に起こる悪い出来事は、すべて「自己責任」として処理されてしまう。これが自信の欠如や対人不安、不全感やマイナス思考につながることは容易に想像されるであろう。
ACをもたらすとされる機能不全家族においては、しばしば「条件つきの承認」が問題視される。無条件に愛するのではなく、親の期待を満たすこと、例えば「良い子にしていれば」「成績が良ければ」といった条件つきで子どもを肯定し愛し続けること。ここに過保護、過干渉が加われば、きわめて支配的な親子関係が成立することになる。
なぜ、こうした親子関係がAC的な葛藤につながるのだろうか。
「条件つき」という場合の「条件」には、一定の基準があるわけではない。それは「親の期待」というきわめて曖昧なハードルであり、ハードルの高さは子どもの現状に合わせて変動する。「這えば立て、立てば歩め」とばかりに、親の期待は、常に子どもの現状よりも高いレベルに設定され続けるため、「これでよい」という判断はほぼありえない。
こうした期待を向けられ続ける限り、子どもは一定の達成感を得られず苦しむことになる。条件つき愛情が、しばしば精神的虐待とまで呼ばれるのはこのためでもある。さらに言えば、このような不安感に晒され続けていると、不幸な出来事に対する因果関係の把握が困難になりがちだ。自分の身に悪いことが起こった場合、どこまでが自分の責任であるかを判断することが難しくなる。
このとき子どもは、大人から見捨てられることを回避しようとして、あらゆる不幸の責任を一身に引き受けようとする。「悪いのはすべて自分である」と考えることは辛いことだが、不幸の原因について詮索したり、誰かのせいにして他人を恨んだりする苦痛を免れうるという意味からは、逃避行動のひとつでもありうる。その意味で「すべて自分が悪い」とする考えは「自分の取るべき責任を明確にする」行為よりも未熟な段階のものである。また、極端な自責は極端な他責へと容易に反転する可能性を秘めている、という問題もある。
さて、たとえ「良い子」のままであっても、子どもはある年齢まではうまくやることができる。それは一般に前思春期まで、と考えられる。これは、この年齢までは、両親による承認のみで自我を支えることが可能であり、場合によってはある種の成熟に達することすらも可能であるからだ。
しかし、「良い子」という属性が適応的に機能することがありうるとしても、せいぜいこの時期までである。思春期以降の成熟過程にあっては、家族以外の他者との関係が欠かせない。しかし他者との関係を作っていくうえで、「良い子」の行動パターンはしばしば不利な属性となってしまう。
誰もが経験するように、思春期以降に決定的な価値をもつのは、同世代の仲間との関係である。この時期は友人や恋人の存在が、しばしば家族よりもはるかに高い価値をもつ。家族よりも仲間からの承認が価値をもつため、家族からの承認向けに形成された「良い子」のキャラクターは、むしろ積極的に放棄されることになるのだ。
ひきこもりは、しばしば思春期において起こるが、彼らはこの時期に、同世代の仲間との親密な関係をもつことに失敗していることが多い。比喩的に言えば「良い子」キャラのままで成熟が止まってしまい、それ以降は良い子であることが社会適応をさまたげている、という事態が起きているようにみえる。
その意味で「良い子」キャラとは、そのまま未熟さを示す属性である。青年期以降も「良い子」であり続けることの問題が、ひきこもり青年においてはもっとも如実に出ていると言っても過言ではない。このように言いうるのは、良い子とひきこもり青年に共通する特徴ゆえである。
それは「自己愛の失調」と「欲望の混乱」である。