「無限責任」が「無責任」に転換するとき 荒木優太『無責任の新体系』より
記事:晶文社
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名前は言葉の重石である。けれども、ふと思うことがある。匿名的な文化が横にあることを知っていながらなお実名や実写を用いることには、匿名の蔭に隠れる卑怯と同じくらいの、或いはそれ以上の、いやらしさと屈辱があるのではないか。
実名で発言し、歴代操ってきた意見をあますことなく身につけるとき、さらには己の実名性でもって匿名の卑怯と矮小を非難するとき、言葉は自分を飾る倫理のアクセサリーとなって、責任ある自分をアピールする道具になりさがる。ほら、こんなに一貫したことを言ってきたんだ。ほら、こんなに責任感があるんだよ。言葉の数々が責任感ある自分を強化するための武装品として装備される。政治家が選挙のさいに、責任を果たさせて下さい、と訴えるその背後には単なる権力欲だけがある。
言葉に支配されずにすんだはいいが、今度は責任に支配される。もっといえば責任あるヒロイックな自画像を褒めたたえてくれる有象無象の他者に支配される。評判を当てにして責任を追い求めるとき、今度は責任の奴隷になっている。
言葉の奴隷になるくらいならば、責任に酔っぱらっているナルシスの方がずっといい? 勿論、そういう考え方もあるだろう。ところで、あなたは『オデュッセイア』を読んだことがあるだろうか?
ホメロス『オデュッセイア』第九歌。トロイア戦争凱旋のおり、船が難破して遭難してしまい、なんとか故郷に還らんとする英雄(ヒーロー)オデュッセウスは、その帰路でキュクロプスたちに囚われる。
キュクロプス、英語読みすればサイクロプス(Cyclops)とは、一つ目の巨大な怪物のことである。凶暴な性格で、棲処の洞窟に入ったオデュッセウス一行を閉じ込め、二人の部下を地面に叩きつけて殺し、それをばらばらに千切ってがつがつと食らう残忍さをそなえている。そんな光景に畏怖したオデュッセウス一行は、それでも、隙をみて見張りのキュクロプスを言葉巧みに騙し、酒で酔わせ、ついには丸太でその目を潰す。
肝心なのは怪物退治で用いたオデュッセウスの作戦である。「お前の名前をいってみよ」というキュクロプスの問いに、オデュッセウスはそのとき「ウーティス outis」、つまりは「誰でもない nobody」と返答する。めしいた見張りの悲鳴を聞きつけ、仲間の怪物たちが集まり、報復のため犯人の名を問いただすが、見張りが答えるに、「誰でもない」。誰でもないのだから、仕返しのしようがない。こうして、オデュッセウスたちの脱出がまんまと成功し、船に乗り込んだ英雄は陸の怪物に向かって己の真の名を高らかに宣言する。
偽名を用いること、しかも、ほとんど名の体裁をもたないような名を名乗ること。つまりは、匿名になること。英雄のイメージとは程遠い、この姑息な作戦は、しかし、現代に生きる私たちにとっても決して無縁のものではない。
仕事で大きなミスをしたとき、上司から《誰がやったのか?》とその帰責を問われる。誰も傷つかない唯一の答え方は、誰かがやりました(誰がやったのか分かりません)、であり、その先に待っているのは、誰もがやりました(みんなの責任です)、のすり替えだ。「誰」が特定できないならば、責任は拡散して、ある集団のメンバーが小さくその責めを分担することになる。責任のシェアリング、これを古い言葉で連帯責任という。
このような責任の論法は、一見、無責任以外のなにものでもない卑怯者の論理にみえる。けれども、実のところ、ある前提に基づけば、相応の理路がないわけではない。
北田暁大は『責任と正義』のなかで、「強い」責任理論を紹介している。この理論では、行為の動機(どういう目的でそれをやったのか?)ではなく行為の結果(なにを起こしたのか?)に照準して評価が下る。それ故、「強い」責任論では、意図せざる行為にも責任が生じることになる。
たとえば、企業の工場排水によって河川の水質が悪化し、その河で育った魚を食べた近隣住民が死んでしまった場合、「強い」理論では、殺人の意図をもたなかったとしても、死という結果がある以上、企業はその責任を負わなければならない。
けれども、強さが突きつける厳しさは、同時に責任の雲散霧消にも通じている。というのも、行為と結果の因果関係の確定はそれを読み解く解釈者に開かれており、その責任の帰属先は潜在的には無限に数えることができるからだ。
企業は確かに近隣住民を意図なく殺した。では、なぜ企業が化学物質を河川に垂れ流したかといえば、権威ある科学者が無害であることに太鼓判を押したからかもしれない。では、なぜ、太鼓判を押したかといえば、有力な政治家がいくつかの数値に目をつむるよう強権的に命令したためかもしれない。では、なぜ、命令したかというと自由な企業活動を推し進めて景気を回復させよ、という地元の支援者の声に逆らえなかったからかもしれない。では、なぜ……。
例示はもういいだろう。なにが言いたいかといえば、動機に求められない行為(の主体)を確定する解釈の自由さは、同時に責任の拡散を引き起こし、責任が誰にでもあるがために誰も責任をとらない、北田のいう「責任のインフレ」をもたらしてしまう。インフレーションを起こした責任は、もはや責任の用をなさないばかりか、吹っかけられた理不尽な因縁に理論的な後ろ盾を与えてしまう最悪の倫理と化す。驚くべきことに、「強い」責任論では「魔女狩りを禁じえない」のだ。
風が吹けば桶屋が儲かる。桶屋の好景気は風のせいである。その気になれば、仕事のミスも、銀行強盗も、特定人種の大量殺戮も、すべて風に帰属させることができるだろう。無論、それは過失の風化( =忘却 )と大差ない。ああ、時代が悪かったのだ!
だからこそ、ウーティスの作戦は、特定集団という枠さえも取っ払うほど徹底化されたとき、凡ミスの責任を人類でシェアーし、全生命体でシェアーし、地球でシェアーし、宇宙でシェアーする責任の体系を繰り広げることになる。連帯責任は宇宙と連帯しなければならない。当然、そのような詭弁を私たちは無責任と呼ぶ。厳格で強力な責任の理論が、いつの間にか無責任に反転してしまう。この急所を見逃してはならない。
誰にでも責任があるが故に誰もが決定的な責任主体ではない。この状態を丸山眞男は、「無責任の体系」と呼んだ。名著としてよく知られた『日本の思想』のなかで、丸山は日本の「國體」や「天皇制」に準拠した責任の考え方が、西洋からみて特殊であると指摘している。
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一見「強い」ように見えるこの「無限責任」は、原理的にいえば免責の根拠を容易に調達できる「巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している」。
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本来ならばデモクラティックな手続きを経ることで却って政治的指導性(正統性)が得られるはずなのに、そのようなものには目もくれず、首謀者は世論の好戦的高揚を後ろ盾にして権力を我が物にしようとする。みんなが望んでいるからやってるだけなんだ、というわけだ。「下剋上とは畢竟匿名の無責任な力の非合理的爆発」である。「威信」が気になって、そのような無法者たちを自分の裁量でいさぎよく処分することができない上官も結局この「爆発」に屈している。
要するに、「無限責任」は、みんな悪かった、の無責任と表裏一体なのだ。
(荒木優太『無責任の新体系』より抜粋)