アフガニスタンをめぐって繰り広げられた「見えざる闘い」 『シークレット・ウォーズ(上・下)』
記事:白水社
記事:白水社
二〇〇一年以前と以後にアフガニスタンやパキスタンで暮らしたり勤務をしたりしたことのあるアメリカ人やヨーロッパ人の多くにとっては、両国について「好戦的な部族」や「終わりなき紛争」の国だとする主張を聞かされるのはつらいことだ。このような紋切り型の言説が誤りであることを歴史的事実は示している。
独立を保っていたころのアフガニスタンは、貧しくはあったが平和で安定した国で、一九七九年のソ連侵攻までの二十世紀の大半は国外の急進派による暴力に悩まされることもなかった。ソ連侵攻以降の数十年に及ぶ内戦は、外部からの干渉によって繰り返し火に油が注がれてきた。それをもたらしてきたのは多くの場合パキスタンだったが、当然ながらアメリカやヨーロッパもその一翼を担ってきた。両勢力は、人道支援や復興支援で何十億ドルもの資金を投じてアフガニスタンの再建にかかわる一方、同時に暴力や腐敗、不安定性をもたらしてきたのである。
また、機能不全に陥っている政府、国家による過激主義の支援、否定のしようのない経済格差にもかかわらず、パキスタンは依然として近代化への道を歩む国家であり続けており、膨大かつ驚くほど有能な中間層と在外パキスタン人に恵まれてもいる。軍とISIが腐敗した政治屋と手を組むかたちで国を誤った道に導くことがなかったら、国民生活の向上や国際社会への積極的な貢献に関するパキスタンのポテンシャルは、今日までにインドに匹敵するものになっていただろう。
この地域の「終わりなき紛争」は、歴史や社会組織の形態、文化に根差した先天的なものではない。個別の失政や暴力的介入の産物なのだ。それは、カブール、イスラマバード、ワシントンの最高レベルで行われてきた政治的謀略、根拠のない推測、インテリジェンス工作、秘密外交、政策決定の結果でもあるが、多くの場合、各国の国民や国際社会はその実態を知らされることがなかった。これこそが、本書で語られる内容である。
(『シークレット・ウォーズ』上巻「はじめに」から抜粋)
本書の大きな魅力の一つは、臨場感あふれる記述である。たとえば、二〇〇八年二月にバイデン上院議員(オバマ政権で副大統領)らがカブールの大統領宮殿でカルザイ大統領と夕食をともにした際に起きた激しい口論の様子は、著者がその場に居合わせたのではないかと思うほどに現場の雰囲気や出席者の人となりが伝わってくる。アメリカ政府とタリバーン幹部との極秘交渉、ホワイトハウスのシチュエーション・ルームで交わされた議論、アフガニスタンとパキスタンのインテリジェンス機関トップ同士のやりとりなども同様だ。
政府の指導者や高官だけでなく、戦場や基地といった現場の状況も克明に記されている。なかでも、アフガニスタンを深く愛しながらも悲劇に見舞われた米軍士官ダリン・ロフティスと彼の家族の物語に、わたしは強く胸を打たれた。いずれの描写も、関係者に対するコールの徹底した取材がなせるわざだろう。
アメリカ政府の意思決定過程を理解するうえでも、本書は絶好のテキストになっている。アフガニスタンがタリバーンによって支配されていた一九九〇年代半ばから二〇〇一年九月まで、外交ルートが途絶えていたなかでアフマド・シャー・マスード率いる北部同盟との接触を保ってきたのはCIAだった。それが、九・一一テロによって状況は一変する。
ホワイトハウス、国家安全保障局(NSA)、国務省、関係国のアメリカ大使館、国防総省、中央軍司令部、国防情報局、麻薬取締局、そして議会と、さまざまな政府機関や議会関係者がアフガニスタン政策に目を向け、それぞれの利益や信条に基づいて行動を開始するようになっていく(さらに言えば、各機関の対応もその時々のトップや担当官によって変わる)。
容易に想像がつくことだが、これだけ多くのアクターが登場すれば、異なる利害を調整しアメリカ政府としての統一した方針を導き出すのは一筋縄ではいかない。実際、ブッシュ政権でもオバマ政権でも「レビュー作業」が何度も行われたり、「関係省庁間グループ」が設置されたりしたが、この問題が十分に解決されることはなかった。その結果、肝心の現場での対応が後手に回ってしまったり、必要なときに必要な資源を投入することができなかったり、といった事態があちこちで起きていった。日本でも省庁間の「省益」争いが指摘されるが、アメリカではある意味、それ以上の事態が展開されていることがうかがえる。
(『シークレット・ウォーズ』下巻「訳者あとがき」から抜粋)