大学をあの手この手で改革しようとした末路 佐藤郁哉『大学改革の迷走』
記事:筑摩書房
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一九九四年七月一五日のことです。場所は、東京大学安田講堂の一室。
一九五五年生まれの私にとって、安田講堂と聞いてまず頭に浮かぶのは「安田砦」のイメージでした。つまり、いわゆる東大闘争の末期、一九六八年七月から翌六九年一月半ばまでの六か月以上にわたって学生活動家たちによって占拠されたあの安田砦です。
安田砦は、最終的には、機動隊と学生たちのあいだで繰り広げられた激烈な攻防戦の末に「落城」しました。一時期その活動家たちの根城になっていたのが安田講堂なのです。それもあって安田講堂は、その頃、学生運動の象徴的存在になっていました。また、当時の学生運動には反体制運動や対権力闘争としての一面があったとされています。
ですから、まさかその安田講堂の一室で、全国の大学から送られてきた大量のシラバスの山を目にすることになるとは思ってもいませんでした。というのも、私からしてみれば、日本で言うところのシラバス(講義計画)、つまり電話帳を思わせるような大部の冊子形式のシラバス集は、反体制どころか体制順応的な対応の象徴としか思えなかったからです。
なお、四〇歳代以下の読者の方はよくご存知だと思いますが、シラバスというのはそれぞれの授業科目の計画を数ページの文書としてまとめて、学部単位などで冊子にしたものです。三〇年ほど前までは「講義要綱(項)」などと呼ばれていた冊子のいわば拡大版にあたります。
その日、共同研究者と一緒に安田講堂を訪れることになったのは、日米の大学院教育に関する比較研究の一環として、東京大学調査室の方にお話をうかがうためでした。同調査室は一九九六年に改組されて「大学総合教育研究センター」となり、またその後本部棟に移されることになりましたが、その当時はまだ安田講堂の一角に間借りしていました。
インタビューに応じていただいたのは、当時調査室に助手としてつとめていた若手研究者の方です。その人が使っていた研究室も含めて安田講堂の内部は、二度の大改修を経て、かつて大学紛争の激戦地であったことなど全く感じさせないほど見事に修復されていました。
そのすっかりきれいになった部屋で見せていただいたのが、日本各地の大学から送られてきたシラバス集の堆積です。それらの大量のシラバス集は、調査室自体の研究プロジェクトの資料として収集されたものだそうです。助手の方が使っていた七畳ほどの研究室に所せましと並べられたシラバス集の山を目にした時には、その膨大な量に圧倒されるとともに、かなりの違和感をおぼえました。というのも、そこで目にしたシラバスと称する冊子は、私自身が米国の大学で授業を受けていた時に使われていた「本物」のシラバス、つまりsyllabusとは似ても似つかぬ代物だったからです。
中でも強烈な違和感をおぼえたのは、某国立大学が作成した七分冊、全部で数千ページにも及ぶ「シラバス」です。その膨大な分量に圧倒されたことは言うまでもありません。しかし、それにもましてショッキングだったのは、七巻の冊子のそれぞれが立派な帙(ちつ)におさめられていたという事実でした。
帙というのは、高価な書物を保存するためなどに使われる、厚紙の上に布を貼ってつくった箱のことです。帙には「こはぜ」といって、箱のフタがすぐ開いてしまわないようにするための留め具と紐(ひも)が付いているものですが、そのシラバス集の帙にも紐とコハゼが付けられていました。シラバス集自体も、上質紙を使ったA4サイズの実に立派なものでした。もちろん、その帙入りのシラバスは学生向けではありません。文部省をはじめとする外部機関への提出用に作成されたものだということでした。その事実一つをとってみても、「和風」のシラバスは、そのモデルとされる、米国の大学で使われてきたsyllabusとはまったくの別物であることは明らかです。ですので、その時は、何か趣味の悪い冗談としか思えなかったものでした。
さらに驚いたことには、東大調査室の助手の方は私たちに次のような、にわかには信じられないような話をしてくれたのでした−−−−「○○大学では文部省に提出する時に、特注の桐の箱に入れてシラバスを出したそうですよ」
その話を耳にしてから、もう四半世紀近くが経っています。ですから、今となっては、文部省への「献上」用に作られたという桐箱入りのシラバスが実在していたかどうかという点については確かめようもありません。もっとも現在の私には、この桐箱ないし帙入りのシラバスにまつわる逸話は、とりたてて意外なことだとは思えません。というのも、この30年ほどのあいだに大学改革の一環というふれこみで日本の大学の世界に導入されてきたさまざまな「改革小道具」の中には、桐箱入りのシラバスと同じくらい、場合によってはそれ以上に奇妙奇天烈なものが少なくないからです。
それらの不思議な小道具の多くは、中央教育審議会(文部科学大臣の諮問機関。以下「中教審」)や文部省(2001年以降は文部科学省。以下「文科省」)からの指示や指導に対して大学側が示してきた過剰反応を象徴的に示しているものだと言えます。しかしその一方で、中教審の答申やそれを踏まえて文科省が大学に対して下してきた指示の中にも、具体的な内容だけでなくその根拠自体がよく分からない摩訶不思議なものが少なくありません。
その結果として大学側は、いわば「御上の御意向を忖度」しながら、対応を模索していかなければなりません。その意味では、大学側の対応が迷走気味になってしまいがちなのは、ある意味では致し方のないことだとも言えます。
事実、大学改革の基本的な方向性を示しているとされる文科省の文書や各種審議会の答申に目を通していると、ひどく困惑させられ、また徒労感におそわれる場合が少なくありません。というのも、それらの文書の多くは、非常に崇高で高邁な理想を掲げているように見えて、実際には、内実に乏しい紋切り型の抽象的な文言(「自ら学び、自ら考える力」、「主体的に変化に対応」等)を並べ立て、あるいは「ポンチ絵」などと呼ばれる意味不明の図解を示しているだけに過ぎないからです。 文章全体が明らかな論理矛盾をきたしている例さえ少なくありません。
したがって、いざそれらの文書に盛り込まれている提言を大学の現場における教育や研究の実践に生かそうとしても、具体的なレベルで「何のために何をどのようにすればよいのか」という点は一向に見えてきません。何しろ、それらの文書の多くは、全体として「驚くほどに崇高で高邁なナンセンス」としか思えないのです。
現場における混乱と困惑をさらに増幅させているのは、それらの政策文書に盛り込まれているおびただしい数のカタカナ言葉やアルファベットの頭文字を含む改革関連用語です。
その中には、たとえば、次のようなものがあります。
FD(ファカルティ・ディベロップメント)、GPA(グレード・ポイント・アベレージ)、PDCA(プラン・ドゥ・チェック・アクション)、ルーブリック、ナンバリング、KPI(キー・パフォーマンス・インディケータ)、AL(アクティブ・ラーニング)、DP・CP・AP(ディプロマ・ポリシー、カリキュラム・ポリシー、アドミッション・ポリシー)、EBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メーキング)。
中には、カタカナないしアルファベットと数字や漢字が組み合わされている例もあります。
AO入試、現代GP、ST比、スーパーグローバル大学、グローバル30、大学COC事業、学修(学習)ポートフォリオ、SWOT分析、Society 5.0(ソセエティ・ゴテンゼロ)。
日本の大学界では、上にあげたようなアルファベットの頭文字や片仮名言葉が「てんこ盛り」になった文書が飛び交っており、「一体どこの国の大学についての話なのか」と不思議に思えるくらいです。
慶應義塾大学の創設者でもある福澤諭吉は『学問のすゝめ』で「開化先生」という言葉を使って、「舶来」つまり欧風・洋風であれば何でも素晴らしいものとして崇め奉ってしまう人々のことを痛烈に批判していました。大学改革に関する政策文書にカタカナ言葉やアルファベットの頭文字が氾濫していることからすれば、どうやら中教審の委員や文科省の関係者には、その明治期の開化先生たち以来の欧化主義的な思想の伝統が、昭和と平成の時代にも(さらに「令和」にも?)脈々と受け継がれているように思えます。
シラバスはそのような「開化先生系」の用語の筆頭だと言えます。しかし先にふれたように、日本各地の大学でこの30年ほどのあいだ使われ続けてきたシラバスは、実は、そのモデルになった米国のsyllabusとは似ても似つかぬ代物です。高等教育研究者の中には、この和風シラバスのことを「偽物」と断じている人がいるほどです(川嶋 2018: 116)。
このシラバスの例に限らず、カタカナやアルファベットの頭文字を含む改革関連用語には、その出所や根拠がよく分からないものや、出所はある程度推測できるものの元々のモデルとは遠くかけ離れた姿に変質してしまっている例が少なくありません。
そのような事情もあって、大学の現場にいる私たちは、その種の新奇な改革関連用語が盛り込まれた答申やそれに関連する文科省からの文書が「下ろされて」くる度に、どうしようもない空しさを感じてしまいます。時には、絶望感にかられることさえあります。というのも、そのような目新しい用語が打ち出されているということは、取りも直さず、新奇な用語やその背景にある(らしい)考え方にあわせてこれまで使ってきた書類の一部を書き換えたり、新規の文書を作成したりする仕事が「降ってくる」ことを意味するからです。
特に、学務関係の委員を担当していたり、新たに立ち上げられた補助金プログラムの申請担当者になったりしたような場合は大変です。というのも、そうした場合、たとえ個人的には新奇な用語や「斬新な」発想の補助金プログラムに対してある種の胡散臭さを感じていたとしても、その本心とは別に、アルファベットの頭文字や片仮名の言葉を散りばめた文書を(後ろめたさをおぼえながら)「作文」しなければならないからです。しかも、その種の作文の際には自作のポンチ絵を要求されることが少なくないのです! また、作文の作業をスムーズに進めていくために学内外の研修やセミナーに参加させられることもよくあります。
そのような書類作成の作業には、当然、かなりの時間と労力が必要とされます。それによって犠牲にされがちなのが、学生・院生に対する教育指導と研究活動です。つまり、本来は大学にとって最も大切なはずの業務や活動に向けられるべき時間と労力が「改革」のために費やされてきたのです。そして、このような事情を背景にして生じる「改革疲れ」は確実に大学の組織としての体力を奪っています。事実、上からの改革に対応するだけで手一杯になっていることもあって、大学人が現場発の改革案を打ち出していくことは非常に難しくなっています。
もし実際に改革政策が死に至る治療としての一面を持っているのだとしたら、いま日本の大学にとって必要なのは、カタカナ言葉や頭文字を散りばめた新機軸の改革案などではないことは明らかでしょう。それよりもはるかに大切なのは、これまでの改革政策が抱えていた問題点を明らかにしていく作業、つまり大学改革を「解体」していく作業だと言えます。
かつて安田講堂に立てこもっていた学生活動家たちが掲げていたスローガンの中には、「大学解体」というものがありました。その活動家たちの試みは当初からあらかた破綻していたようですが、「安田砦」の落城から現在までの約半世紀のあいだに、日本の大学は、当時の活動家たちが唱えていたのとはまるで違った意味で解体を続けてきたように思われます。そして、政府や文科省をはじめとする行政関係者たちは、彼らにとっても好ましくない意味でも解体(崩壊)しつつある日本の大学の世界を立て直そうと躍起になってきました。しかし、先にふれたように、その大学「改革」の試みそれ自体が「死に至る治療」としての一面を持っていたこともあって、大学における教育と研究はその根底から崩壊しつつあるのだとも言えます。
その意味でも、大学改革それ自体を「解体」していく作業、つまり、従来の改革政策のあり方を徹底的に問い直した上でその問題点を洗い出していく作業がどうしても必要になってきます。実際、そのような作業をおろそかにしたままでは、真の意味で大学という制度を立て直すことなどとうていできないでしょう。
『大学改革の迷走』(ちくま新書)から抜粋