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全共闘世代のコミューンで生まれ育ちました 『しょぼい生活革命』より

記事:晶文社

『しょぼい生活革命』(晶文社)
『しょぼい生活革命』(晶文社)

両親は東大全共闘の生き残り(矢内)

中田考(以下、中田):いま日本では、後世になにかを伝えるということが、本当にあらゆるレベルで、なくなっているんじゃないかという危機感があります。今回の対談全体のテーマとして、過去から未来へとつないでいくということをお話ししていただければと思っています。

 内田先生やわれわれの世代だと、マルクス主義は基本的な教養で知識人であることと左翼であることは殆ど同一でした。右翼の知識人なんて、いても1人か2人。ところがいまは、そもそもマルクス主義の考え方を若い人は知りません。そこで、マルクス主義の反省及びこれからの可能性、どの部分を継承して、どの部分を変えていくのかもお聞きしたいんです。

矢内東紀(以下、矢内):いま中田先生が左翼の話をおっしゃったので、まず実家の話をします。僕の両親は、東大全共闘の生き残りなんです。

内田樹(以下、内田):いま、何歳ぐらいなんですか?

矢内:父はもう亡くなっているんですけど、いま生きていれば78歳ぐらいです。僕はかなり遅い子どもで、兄は25歳ぐらい離れています。父は安田講堂事件のとき東大の院生で、その中にいて逮捕されました。そのとき母は東大の1年生だった。その後、「全共闘の生き残りはみんな大企業に就職した」という言説がある一方で、山本義隆先生のように市井にいつづけた人もいましたが、両親はかなり特殊な、毛沢東主義気味の10人から15人ぐらいのノンセクトコミューンというものを維持していて、僕はそこの王子というか(笑)、指導者の子どもとして育てられました。

内田:場所はどこだったんですか?

矢内:最初は沖縄の農村でした。そのあと転々とします。私がこの組織の歴史を語ると、「お前は何も知らないだろう」と親がすごく嫌がるんです。つまり情報統制型の組織です。ただ、子どもの立場から事実を見ていて感じることもあるわけで、トップの指揮官が情報を統制して、統一見解を出すという形での左翼は、かなり厳しいものがあると思います。だから統一見解としての「正史」であるかどうかは別にして、私は私の見聞きした範囲のことを存分に語ろうと思っているんです。

 そういうわけで、全共闘が終わったあと、といっても親たちの中では全共闘は続いているという認識で、まず沖縄に行ったんです。当時、沖縄はまだ返還されたか、されないかという時期で、米軍基地をどうするかという問題があったとき、米軍を置いたほうが儲かるのであれば、経済的合理性から米軍を置くだろうと。だから米軍を出て行かせたいのであれば、経済合理的に置かないほうがいい状況をつくればいいということで、沖縄に農業をしに行ったんです。うちの親父がリーダーとなって、東大生や高校生の集団を引き連れて、沖縄で集団農業をして生計を立てていた。私はまだそのころは生まれていないんですけれども。

 その後に連合赤軍の事件があって、「あいつらは怪しい」と思われて村八分に遭って、全国を転々として、私がものごころついたころには、東京都内で弁当屋をやっていました。他にもいろんなことをやっていたみたいです。

内田:コミューンは維持したまま?

矢内:はい。コミューンを維持しつつ、移動しながら。

6歳ごろまで誰が母親か知らなかった(矢内)

矢内:僕は6歳ごろまで、誰が母親か知らなかった。「お父さんたち」「お母さんたち」という言い方をしていたから。だけど「おはなし」を父にしてもらった記憶はあります。「マルクスという人はね、とても貧乏で、そのせいで娘が亡くなったんだよ」というような。それが『桃太郎』の代わりですね。

内田:桃太郎のかわりにマルクスの話(笑)。コミューンのメンバーはその当時で何人ぐらいいたんですか?

矢内:子どものころは15人ぐらい。現在も存続していますが、メンバーが亡くなったり、離脱したりでいまは8人ぐらいです。

内田:それはまことに希有な家庭にお育ちになりましたねえ。

矢内:その意味では、どうしていいのかわからない(笑)。母からは、あるときには、「お前に継いでほしい」と言われましたし、あるときには、「お前なんか関係ないんだから黙ってろ」と言われる。いろんな意味で成熟していないので、組織はリーダーである母が死んだらどうなるかわからない。本人たちは革命運動を実行中という認識ですが、みんな老いていくわけです。自営業をする日数も、昔はそれこそ365日ずっと働いていたと記憶していますが、いまでは土日は休んで体力を回復しなければ持続不可能な年齢になってきている。だって、もう10年、20年すれば亡くなるような年齢ですから。

 そういった中で、私は後継者になることを拒むという形で完全に反旗を翻したと目されていて、母からすれば「私たちのことを語るなんて許さない」と。

内田:なんだか村上春樹の『1Q84』に出てくる農村のコミューンみたいですね。ああいうグループってほんとうにあったんですね。

中田:矢内さんは、たくさんある起業の業態で、最終的には身体を使って働くことが一番大切だと、そういう部分をマルクス主義から継承しています。現在やっていることは芸人的で、これはおまけというか、社会が豊かになって初めてできる、という認識があるところが、いまの若い人たちの中でも違っています。

矢内:労働価値説ですね。

全共闘に欠けていたのは身体性(内田)

中田:それを継承していくべきだと思うんです。内田先生も、まさにそういう時代を生きてこられましたが、学生運動の失敗は何が原因だったと思われますか?

内田:僕は60年代の終わりから70年代にかけて学生運動、全共闘運動の渦中にいて、活動家たちを間近で見ていたんですけれども、彼らに決定的に欠けていたのが身体性だったと思います。観念性や情緒は過剰でした。あのころは「身体」と言わずに、「肉体」と言っていましたけれど、そのときに言われる「肉体」はどうも生身の肉体のことではなかったような気がします。過剰な政治的観念性と非常に相性のいい肉体性だった。だとしたら、それも恐らく観念だったと思います。だから、「情念」とか「肉体」という言葉だけは行き交っていましたけれど、それは傷ついたり、病んだりする、ふつうの人間の生身の身体のことじゃなかったような気がします。

 橋本治さんが、1968年に、東大の駒場祭のポスターを描きましたね。「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーの。68年というと僕が高校を中退してぶらぶらしてたときで、家出したあと、お金がなくなって、実家に戻り、面目ないままに家の隅で屈託しているとき、新聞で橋本さんのポスターについての記事を見た。それで本物が見たくて、小田急線に乗って駒場までポスターを見に行ったんです。勝手に巨大なポスターをイメージしていたので、本物を見て、「なんだ、小さいな」と思ったんですけど(笑)。でも、見ているうちにすごく救われた感じがしました。

 橋本治さんのポスターには身体があったんです。観念でもないし、いわゆる「肉体」でもなくて。ふつうの身体があった。そのころの大学祭のポスターって、ご存じないでしょうけれど、毒々しく原色を塗りたくって、やたら画数の多い漢字が書き連ねてあって。大学祭のテーマが漢字で一列に書ききれないくらいに長かった。そういう風潮の中にあって、橋本さんのポスターにはやさしい余白があった。色使いも白、黒、赤、緑の4色くらいで。とにかく過激であればいいという時代でしたらから、ささくれだった気持ちをこういうふうに鎮めてくれる表現があるのかと思いました。

(内田樹×えらいてんちょう(矢内東紀) 司会:中田考『しょぼい生活革命』より抜粋)

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