佐藤優が『16歳のデモクラシー』で語る、歴史を学ぶ意義
記事:晶文社
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民主主義の行き詰まりとはどういうことだろうか。近代とともに生まれた民主主義社会は、結局のところ競争の世界であり、お金をたくさん持っている人が権力を持つ。つまり「ブルジョア・デモクラシー」、お金持ちのデモクラシーであるともいえる。
教育を例にとって考えてみよう。教育は平等であり、みんな受けることができることになっている。でも私立大学医学部の授業料がいくらかわかる? だいたい年間300万円、医学部は6年制だから6年間で1800万円だよね。そうすると、1800万円の授業料を用意できる家庭と、できない家庭、その間には実質的な格差がある。もし九州大学や東北大学に行けるくらい成績が良かったとしても、九州大学に行くなら下宿しないといけない。その宿代と授業料を親が仕送りできない場合、自活するのはかなり大変だ。偏差値表だけ見て、九州大や東北大に行こうと選べる人と、経済的な条件があるために、自宅通学の範囲でしか進学できない高校生がいる。医学部受験にしても、親がお医者さんの人は、教育費をかけてもらい、有利な状況でお医者さんになる。そしてそれが再生産される。同じ「受験競争」といったって、実質的には平等ではない。表面上の権利があったとしても、お金がある家庭に生まれた子どものほうがスタートの時点から有利だ。
たとえば、このようなブルジョア民主主義が本当に民主主義なのか。もっと格差が拡大すると、高等教育を受けさせられない、義務教育を出すのがやっとだという家庭もある。いくら優秀な子どもがいたって、その子どもには最初からチャンスがない。でもそれでいいの? 金持ちだけがいい思いをして? 歴史的にみて、そんな批判が起こってきた。
そこで二つの流れが生まれる。ひとつは共産主義だ。私有財産をなくし、労働者で分配することを考えた。そこからソビエト連邦という国ができた。もうひとつは、ファシズムとナチズムだ。国家が間に入って、金持ちの金を取り上げ、貧乏な人たちに再分配する。さらに、戦争をして外から奪ってきて、自分たちの民族を豊かにしていく。こういう考え方が生まれてくる。
第二次世界大戦の構造とはどういうものか。国家の間で、金持ちの国家と、弱い状況に置かれている国家に分かれていた。我々の能力は同じなのに、構造的に弱い状況に置かれていると考え、それを転換しようとしたのが、ドイツやイタリアであり、日本だった。アメリカやイギリスをはじめとする富める国だけが豊かな状況を、戦争によって変えようとした。これが第二次世界大戦の一つの側面だよね。
このような状況に対して、アメリカは当初「これはヨーロッパのケンカだ」と、関与しない方針だった。「我々は関係ない。ヨーロッパで問題が起きているだけだ」とね。アメリカだけが平和で、アメリカだけが繁栄すればいいと。ところがニーバーは、ナチスドイツのような軍国主義と、アメリカは戦わなければいけないと主張した。ここでニーバーは新約聖書の「光の子」と「闇の子」という分節化を用いる。「光の子」とは神に従う人、「闇の子」とは神に反抗する人のことだ。ニーバーはナチスドイツは「闇の子」であると考える。
「闇の子」は、強い者が生き残ればいい、弱い者は宿命だから諦めろ、というような冷たい人間観をしている。民主主義の「光の子」は社会の格差が開いていくことに対して、あまりにも鈍感だ。その点は反省しなければならない。資本主義者がやるべきことをやらなかったから共産主義が生まれてきた。そのため、共産主義も実は光の子だとニーバーは考える。
しかし、それとナチズムとファシズムは根本的に違う。だからこそアメリカはソ連と手を組んで、ナチスドイツを封じ込めなければいけないのだ。ニーバーの主張は当初、「アメリカを戦争に巻き込むのか」と批判されていた。しかし1941年11月7日に日本が真珠湾を攻撃すると「やはりニーバーのいうとおりだ、アメリカが攻撃されてしまったぞ」と風向きが変った。日本だけが問題なのではなく、最大の問題はドイツのナチスなのだと。
この本はそのような文脈の中で書かれた。民主主義が生き残るためには、時には武器を取らなければいけない。絶対平和主義には立たないというのがニーバーの考え方の特徴だ。これはアメリカで普遍性を持つ考え方だといえる。
(佐藤優『16歳のデモクラシー 受験勉強で身につけるリベラルアーツ』より抜粋)