パンデミックと劇場閉鎖 『『リア王』の時代 一六〇六年のシェイクスピア』
記事:白水社
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一六〇六年七月下旬、これまでにない最高傑作ばかりと言えるかもしれない何本かの新作がかかった刺激的な演劇シーズンのさなか、国王一座はグローブ座の旗を降ろし、劇場の扉に鍵をかけた。疫病がロンドンに戻ってきていたのだ。その突然の再発はロンドン市民の不意を衝いた。年の始まりは希望に満ちていたため、なおさらショックだった。毎週教区ごとに発表される疫病による死者数は、市当局によって毎木曜の朝に公表され、凝視された。一月から三月半ばまでは一桁で、四月下旬に突発的に上がったのちは、六月下旬まで週に二十人を超えることはなかった。二年前、三万人以上のロンドン市民が死んだ疫病流行があってからは、疫病の死者が「三十人以上」になったとき公衆劇場は閉鎖すると枢密院が決定していた。上演を再開してもよいのは、その数字より下がったときだけだ。トマス・ミドルトン作『お馴染み五人の伊達男』(一六〇七)を何気なく見ても、「数字が三十を超えちまったら、役者は干されちまう」という台詞があって、ロンドンの役者たちがその公的な禁令を気にしていたことがわかる。
だが実際は、四旬節(レント)のあいだの劇場閉鎖と同様に、抜け道はあったようであり、生活費を稼がなければならない役者たちは規則を破ることもあり、疫病死者数が四十あたりまで下がれば上演を再開することもないわけではなかった。十六世紀末から十七世紀初頭にかけてロンドンの疫病死を数える対象となる町と郊外の教区の数は当初およそ百だったのが、徐々に増えて、一六〇六年には百二十一となっていたため、劇場閉鎖を命じる回数も同様に増えていたと思われる。
この時期の枢密院の記録は一六一九年の大火で焼失したため、それぞれの事例において正確に何人の死者が出たときに閉鎖令が発令されたかはわからないが、ローディング・バリー作『ラム路地』(一六〇八)において、ある人物が「疫病死者四十人と発表があったときの新人の役者みたいに、萎えるなあ」と言うので、三十というのは厳密な数字ではなかったことが窺える。いずれにせよ、一六〇六年七月下旬までには、疫病死者数は四十を遥かに超え、毎週上がっていったため、少なくともその夏は公衆劇場での上演は無理だった。
誰もそのことを印刷された文書であえて述べていないが、デンマーク王が縮小された滞在期間のうちロンドンにいたのは僅か二日で、それ以外は郊外に連れ出されたのも疫病のせいと思われる(七月の第一週の時点でジェイムズ王自身が疫病死者数の増加を認め、「ロンドンに蔓延する病気を嘆く」と述べている)。ロンドンの劇団は、この二人の王の前で上演するように招かれなかったときは、地方へ巡業に出ていた。秋になって涼しくなれば、これまでそうだったように、ロンドンの疫病死者数もまずまずのところまで下がるだろうと期待していたのだ。九月末の秋の開廷期の始めぐらいには帰ってこられるだろう、と。
ジェイムズ王の最初の七年の治世のあいだにロンドンで疫病が毎年蔓延し、一六二二年の大流行の前に不思議にも一旦消えるまでは、毎年凄まじい苦しみを味わったり、それほどでない年もあったりしたはずなのに、家族や隣人といった現場の声の記録はほとんどない。つまり、現在わかっている情報のほとんどは公的書類、医療文書、疫病についての小冊子、説教、僅かな手紙から得たものなのだ。たとえば、ルイーザ・ドゥ・カヴァヤル・イ・メンドーザというスペイン人女性がロンドンのニュースを海外にいる友人に宛てた手紙がある。一六〇六年三月上旬には「お伝えすべき新しいことはなにもありませんが、先週の疫病の蔓延はものすごいものでした」と書き、七月上旬にはロンドンの街中で高まった不安を皮肉に捉えてこう記している。「人々は、決して消えない疫病がまた広がり出したと怯えているのです。ロンドンのすてきな特徴の一つですね!」
隔離された家から逃げ出したところを捕らえられた者は、疫病の様子がなければ鞭打ちの刑に処され、明らかに疫病に罹っている者は重罪人として処刑されたということも、当時の記録から知られている。多くの人が群がらないように、葬式の参列は、棺を担ぐ人と牧師を含めて六人までとされたが、そうした規則は無視されることが多かった。家から家へ寝具を移動することも禁じられた。患者を看病する者は、通りを歩くとき、一メートルの赤い杖を持たなければならなかった。ロンドンの雑踏で他の人たちがその人を避けられるようにするためである。だが、そうした詳細は情報としては大切ではあるが、疫病のさなかでの生活がどのようなものであったのか肝心のところについては証拠がなさすぎた。
疫病が流行ると、確かにロンドンで聞こえる音が違ってきた。葬式は最後に弔いの鐘を──ときに一時間かそれ以上──ロンドンの二十六教区にある百十四の教会のあちらこちらで鳴らす。それは不協和音だった。『ヴォルポーネ』で、ヴォルポーネがレイディ・ウッドビーの大声を嘲るときも、この鐘の音が思い起こされる──「疫病のときの鐘の音だって、あんなにうるさくはない」〔第三幕第五場〕。気が狂いそうだと思った人もいるようで、ジョンソン作『エピシーン、物言わぬ女』(一六〇九)では、疫病期の「しつこい鐘の音」に苦しんだ主人公モロースが、「二重の壁と三重の屋根のある部屋で、窓はぴっちり閉めて隙間に詰め物をして」ほしいと願う(第一幕第一場)。シルバー通りの聖オラーヴ教会のはす向かいに住んでいたシェイクスピアが、執筆中この陰鬱なる騒音に耳をふさごうとしてふさぐことができたのだとしたら、それもまた抜群の才能に恵まれたシェイクスピアの特技の一つだったということになる。
と同時に、犬の吠え声といった町の音が不思議にも聞こえなくなっていた。ロンドンを走り回っていた野良犬は虐殺され、殺せば一匹一ペニーの報酬をもらえたのだ。ジョン・フレッチャーは、一六〇九年に書いた劇『つんとした淑女』のなかで、この風習に珍しい抗議の声をあげている。「今度大病が流行ったら、犬を殺さないでほしいわ。何の罪もないのですもの」。しかし、市民を守らなければならない市当局には、疫病の原因がわからない以上、ほかになすすべがなかった。星の並びが悪いのか? 神の怒りか? 瘴気か? シェイクスピアが描くタイモンは、疫病の不思議な原因について話すとき、これら三つとも原因だと言っているようだ。「星による疫病のごとくあれ。ゼウスが悪徳高き都市に毒を撒き散らし、病んだ大気で覆うように」(『アテネのタイモン』第四幕第三場一一一~一三行)。原因はわかっていると思う人もいた。T・ホワイトという説教師は、一五七七年にセント・ポール大聖堂の説教壇からロンドン市民に呼びかけ、演劇のせいだとした。「疫病の原因は罪であり、罪の原因は芝居である」から、「疫病の原因は芝居である」という。
科学によってこの疫病はペスト菌と呼ばれるバクテリアによって惹き起こされると発見されるのは、数世紀後の話だ。バクテリアは、感染した蚤(咬まれるとリンパ腺を冒して痛みを伴う腫れや横痃を生じる)や、感染した人の咳や息によって拡散し、急速に肺不全を惹き起こす。蚤は、齧歯類、特にドブネズミによって運ばれ、ネズミは煉瓦や石の家よりもロンドンに多くあった茅葺木造家屋を好んだ。蚤は摂氏二十度から二十五度ほどの湿った気候で繁殖するので、夏の暑さが続いて雨がちな秋になると、かなり長いあいだ生き延びた。
感染した蚤に咬まれたあとの症状はひどいものだ。発熱、頻脈、呼吸困難、そのあと背中や脚が痛み、喉が渇き、歩行困難となる。当時の人が記したように、さらにひどい症状には「精神的に落ち込み、陰々滅々となって悲嘆に暮れる」というものもある。感染したら最後にどうなるかわかっていた以上、意気消沈するのも無理はなかった。肌は熱と乾燥を感じ、「神の印」と呼ばれる黒い変色が表れる。横痃──シェイクスピアの時代には「疫病の腫れもの」とか「できもの」とか呼ばれたリンパ腺の硬い腫れ──が鼠径部や脇の下や首などにでき、それが破裂すると痛みはあまりに耐えがたく、窓から飛び出したり、河へ身を投げたりするほどだった。最後には口もきけなくなり、うわごとを言い、譫妄状態となり、心臓麻痺で死ぬ。恐ろしい最期であり、見ている方もつらい。残酷なことに、十歳から三十五歳のあいだの人たちが特に感染しやすかった。
日常生活のいろいろな可能性に鋭い洞察を与えてくれる演劇は、疫病に関しては無力だった。当時の劇作家たちは、ほとんどあらゆる問題やタブーとされていた題材を取り上げ、観客は舞台上で凌辱された被害者が脚をひきずって歩くのを目撃したり、喉がかっ切られ、目が繰り出されるのにたじろいたりしたものだ。しかし、舞台で決して描かれなかったのが疫病患者やその症状なのである。疫病について少しでも語ることすらなかった。劇場内でひしめく観客に病気がうつる危険を思い出させては商売あがったりになるからか、それともトラウマのようになっていてとても直視できなかったのか。シェイクスピア作品のなかに疫病の惨状についての言及がないわけではないが、その僅かな言及はそれゆえなおさら驚くべきものだ。最も忘れがたいのは『マクベス』のなかの、死者や死にゆく者たちのための教会の鐘の音が鳴りやまず、人々はもはや誰のために鐘が鳴らされているのさえ尋ねないという重たい表現である。健康そうだった人が、歩く死者となる。たった四行ではあるが、疫病がもたらした恐怖と沈鬱をこれほどうまく表すものはなかろう。
弔いの鐘が鳴っても
誰が死んだか問う者もない。
善男善女の命が、帽子に挿した花よりも早く事切れ、
病でしぼむ暇もない。(第四幕第三場一七一~四行)
怒りのリアがゴネリルのことを「疫病の腫れものめ。わが血の穢れで腫れあがったできものめ」(第七場〔第二幕第四場〕)と呼んだり、『アントニーとクレオパトラ』でどちらが勝っているかと聞かれた兵士が、「死が確実な印のある疫病のように」(第三幕第十場九~一〇行)惨憺たる状況だと答えたりする場面において初演時の観客が感じたはずのショックは、四世紀後の我々には、わからなくなってしまった。一六〇六年の観客は、疫病の腫れものや「神の印」をあまりによく知っており、そうした恐ろしいイメージは単に比喩的なものではなく、我々の知らぬ恐怖を呼び起こすものだったのである。
伝記作家たちは、シェイクスピアの作風の変化を作者の心理状態のせいにしてきた(つまり、喜劇やソネットを書く時はシェイクスピアは恋に落ちたり失恋したりして、落ち込めば悲劇を書き、『ハムレット』を書いたときなどは嘆き悲しんでいたということになる)。確かに作家の思いは執筆に大きく影を落とすだろうけれども、四半世紀にわたる執筆活動のあいだにシェイクスピアが感じていたことについて我々は実は何一つ知らず、ただ作品から逆に憶測しているだけなのだ。むしろわかっているのは、一六〇六年にネズミがもたらした災害でシェイクスピアの作家生活が大きく変わり、その劇団も変貌・刷新し、競争が減って、シェイクスピアが相手にする観客の質が変わり──それゆえシェイクスピアの作風が変わり──有能な音楽家や劇作家との共同作業ができるようになったということなのだ。それもこれも、シェイクスピアも命の危険を感じた疫病のせいである。
【「第14章 疫病」より】