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100年前のパンデミックの記録『流行性感冒』――なぜいま読むべきか?

記事:平凡社

スペイン風邪が蔓延していた1918年当時に貼られていたポスター。『「テバナシ」に「セキ」をされては堪らない』『含嗽(うがい)せよ 朝な夕なに』といった啓蒙コピーは現代とまったく変わらないものだ(東洋文庫『流行性感冒』P160-161より転載)
スペイン風邪が蔓延していた1918年当時に貼られていたポスター。『「テバナシ」に「セキ」をされては堪らない』『含嗽(うがい)せよ 朝な夕なに』といった啓蒙コピーは現代とまったく変わらないものだ(東洋文庫『流行性感冒』P160-161より転載)

『流行性感冒』の重版に寄せて

 東洋文庫の『流行性感冒』の重版が決まった。まずは素直に嬉しかった。だが、重版への引き金は、単純に喜べるものではなかった。新型コロナウイルス感染症の世界的大流行である。人はこの流行から1918年のインフルエンザ・パンデミックを想起し、本邦におけるそれの記録としての『流行性感冒』の需要が高まったからという。人々は今何のためにこれを読むのか。趣味の歴史か、あるいはそのアナロジーから自分たちの行く末を読み取ろうとするのか、はたまたそこから教訓を得てこのパンデミックへの対処法を探ろうというのか。たぶん、それぞれの人々の背景、立ち位置で違うだろう。

 筆者は、今回のパンデミックを医学者の立場から眺めている。一方で1918年のパンデミックが題材のクロスビーの名著『史上最悪のインフルエンザ』の訳者であり、また本邦での記録、『流行性感冒』の翻刻に働いた者でもある。その筆者に、1918年と一世紀を隔てた、しかも原因病原体の異なる今度の流行との間の、共通点あるいは相違点を問うメディアは多い。地方紙の記者からもいくつかある。彼らは口をそろえて、本書によって自分の県でのかつての出来事を初めて知ったという。本書の特色の一つは、地理的、経済的に異なる県ごとの流行の様子と、とられた対策が詳細に書かれていることにある。

当時のポスターには『マスクをかけぬ命知らず!』という警句も。(東洋文庫『流行性感冒』P158-159より転載)
当時のポスターには『マスクをかけぬ命知らず!』という警句も。(東洋文庫『流行性感冒』P158-159より転載)

『汽車電車 人の中ではマスクせよ 外出の後はウガヒ忘るな』など、ポスターでの広報が重要視されていた(東洋文庫『流行性感冒』P186-187より)
『汽車電車 人の中ではマスクせよ 外出の後はウガヒ忘るな』など、ポスターでの広報が重要視されていた(東洋文庫『流行性感冒』P186-187より)

 一方で、今度の流行と一世紀前の流行との類似性は、容易に読み取れるだろう。特効薬はなく治療は対症療法のみ、やれることはマスク装着と人の密集を避け換気をすること、そして広報ぐらいである。また同じような人間模様も見て取れる。身銭を切って弱きを助ける篤志家もいれば、流行を自らにとっての好機として動く人たちがいる。

 それでは違いは何か? あって当然。当時5千万だった人口は今や倍以上である。そして高齢化と若年者人口の減少という人口構成、また桁違いの経済活動規模。教育もメディアや情報伝達の手段もまるで違う。それらが流行そのものやとられる対策に影響を与えないわけがない。我々は、そうした類似性と相違から、そして過去の日本人のありようから、何を学んで何を今後に生かすのか。類似点とともに、当時無く今ある社会の特殊性から派生する利点と弊害について、深く考えるべきであろう。

 二つのパンデミックの違いといえば、今回の流行第一波は騒ぎの割には規模的に1918年のそれに遠く及ばないことがある。よって今後第二波があるとすれば、その分、そちらが大きくなる公算が強く、それを何とか乗り越えるべく今からの準備が必要である。それに資するこの貴重な歴史記録が今度の増刷により、多くの人の手にいき渡ることを願ってやまない。

 クロスビーの著書の原題は、直訳では『忘れられたアメリカのパンデミック』である。よもや今度のパンデミックが100年後に忘れられていることはあるまいとは思いたい。だが、それは、今後我々がどのような記録を残せるのかにもかかっていよう。我々は1918年の出来事を100年後の今見てあれこれ言っている。だが今から100年後の人々は、今我々に降りかかっているパンデミックを、そして我々がそれに対して行ったあるいはこれから行うであろうことを、どのように見、どのように評価するだろうか。

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