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三谷博『日本史からの問い 比較革命史への道』 1968から1868へ──比較革命史へと至る維新史家の遍歴

記事:白水社

『日本史からの問い 比較革命史への道』(白水社)
『日本史からの問い 比較革命史への道』(白水社)

 駒場に新入生として入学してかれこれ二カ月ほど経った頃、見田宗介ゼミのデータを探して統計局に行き、駒場寮に帰ったら、部屋中が騒然としていた。私の部屋は法律問題研究会という名ばかりのサークル部屋で、母校の先輩たちがいるというだけの縁で入れてもらっていたのだが、普段はおとなしい人たちが口々に総長はけしからんと興奮している。大河内総長が医学部の学生処分に端を発した学生の抗議に応えるため、本郷の安田講堂で説明会を催したのだが、それが逆効果となったらしい。駒場からは自治会が沢山のバスを借りて駒場生を本郷と往復させた。あとで関係者から聞いたところでは、一九七〇年に安保反対運動を提起しようと待っていた彼らからすると、やや先走る形で東大さらに全国の学生運動が勃発したのだそうである。

 授業は全休止し、のちには、第一本館(現一号館)の椅子は全部外されて入り口に積み上げられ、授業再開を防ぐためのバリケードとなった。授業がなくなると、暇になる。暇になった学生が何をするか。まずは部屋で憶えたばかりの麻雀を始める。当時はやっていた真夜中の山手線一周に突如出かける。リュックに毛布を横ざまにくくりつけて「カニ族」となり、普通列車に乗って北海道に出かける。私は何もしなかった。

 夏が終わり、十月が近づいて学生がキャンパスに戻る頃になると、新聞に大学が学生側と授業再開の交渉を始めているという記事が載るようになった。朝日は見込み十分との観測を報じたが、現場にいる人間にはそうは見えない。駒場には様々の新左翼が入り込み、様々の色のヘルメットにタオルで覆面し、角材を手にした若者がキャンパスを闊歩している。要所要所には、ハンドマイクを手に語尾にアクセントをつけて伸ばす新式の語り口で絶叫している人がいる。聴衆はもっぱら仲間だけで、通りがかりの凡人には何を語っているのか、分からない。

 夏の前か、後か、忘れたが、時々、「教官」たちと「学生」の「大衆団交」が開かれた。医学部教授会の不適切な学生処分が祟って、「教官」たちは初めから被告席に立たされていたのだが、その受け答えは概ね自信なげで、「学生」の居丈高な追及の前にしどろもどろだった。中には、当時の野上学部長のように、処分の不適切を認めながらも、学問を続ける必要を毅然として語る人もあったが、多くの「教官」はその場に現れないか、迎合的な態度をとることが多かった。追及している学生は無論のこと、取り巻いて見ている学生から見ても、みっともない光景である。真っ向から反論する「教官」の方がむしろ尊敬されていた。

『日本史からの問い 比較革命史への道』(白水社)P.66-67より
『日本史からの問い 比較革命史への道』(白水社)P.66-67より

 秋も深くなって、全共闘の主張はついに「大学解体」に行き着いた。日本の大学は資本主義に奉仕する権力の一部に成り下がっていて、自分たちも卒業後はその中に組み込まれ、庶民を抑圧する存在になってしまう。革命の端緒として、いま自分がいる大学から壊してゆこう。ざっとこんな主張だったが、部屋の先輩に「東大を壊してからどうします?」と聞いたら、「京大に入るのだ」との答え。「京大に入ったらどうするんですか?」と聞くと、「京大も解体するのだ」と返ってきた。誰もそうはしなかったが、東大の紛争は日大のそれとともに全国に伝染したのだから、結果は似たようなことになった。

 その頃、本郷に史上初めて警察の機動隊が入った。大学はたとえ国立であっても政府とは独立で、「自治」を行う。これが伝統であり、政府も認める慣行であった。駒場の場合は、第一高等学校の後進だけあって、とりわけこの「自治」に誇りを持っていた。かつて一高の寄宿寮は学生の手で運営され、そのキャンパスは外部者が立ち入れない「聖域」だった。女性の立ち入りも年一回の記念祭に親族だけが許される慣行だった。二・二六事件の年、代々木連隊の一個小隊が炊事門から北門に通り抜けた時、寄宿寮委員会は猛然と抗議し、その結果、連隊の副官が校長室を訪ね、そこで謝罪をするということがあった。こうした伝統が「自治」の内部崩壊でできなくなった。私はそれを本郷の現場で目撃することとなった。

 年末になると、大学側の紛争収拾への動きが活発化する一方、キャンパスの中では新左翼をはじめ様々のセクト同士の暴力行使が頻繁となった。共産党系の団体が主催して駒場寮の食堂で開かれた集会には、新左翼のヘルメット部隊が乱入を図り、それを防ごうと椅子が次々と入り口に投じられて、見る見る山となった。乱入者は諦めて引き揚げたが、中には逃げ遅れて捕まえられ、股間を足蹴にされる者もあった。見かねて止めさせたが、彼らは解放されたわけでなく、後日、寮の便所に行くと、針金で手足を縛られて連れてこられていた。別の日には、あるセクトの一階の部屋に別のセクトが夜襲をかけた。防禦側は二階に駆け上がり、窓から下にいる攻め手に鉄製の椅子を投げつけた。この時も、攻め手が退去する途中、一人がゲバ棒の一撃で昏倒した。防禦側は気絶した彼を踏みつけながら追撃してゆく。幸いなことに、私が駒場にいた間は死人は出なかった。

 お正月明け、駒場寮の屋上でストライキ解除のための集会が開かれた。その夜は大規模な攻防戦になりそうだったので、私は山手通りの向かい側の路上に立って一夜を送った。周りを見ると、路地で私服の警官たちが若者を捕まえ、殴ったり、蹴ったり、袋だたきにしている。その一人がいきなりやってきて胸ぐらを摑まれた。すぐ解放されたが、お巡りさんも結局同類と思った。おかげで発熱し、安田城攻防戦は夢うつつだった。

【同書「一九六八年駒場──東大入学と大学紛争」より】

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