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関口涼子『カタストロフ前夜』――声はわたし(たち)にも触れる

記事:明石書店

関口涼子『カタストロフ前夜~パリで3・11を経験すること』(明石書店)
関口涼子『カタストロフ前夜~パリで3・11を経験すること』(明石書店)

 あれから9年後にこのテクストを読めてよかったと思う。フランス語で書かれた3冊の著作を、著者自身が日本語に翻訳したものであることもまた。

カタストロフの起点――「これは偶然ではない」

 最初の「これは偶然ではない」は3.11の前日から書き出された記録だ。9年前の東日本大震災をめぐる出来事について、パリに住んでいた著者が考え、問いながら、ことばを書きつける。そのことばを読むことで読者は自分のなかですでに失われ、風化して朽ちてしまった記憶の気配に、はっとする。問いがふくらむ。著者がパリにいたため立ちあえなかった出来事に、では、東京にいた者は立ちあえたのか。京都にいた者は、福岡にいた者は、北海道に……。それは物理的な距離の問題なのか。そして考える──そもそも、立ちあう、とはどういうことかと。

 海から川を逆流する水の勢いを、息を詰めるようにしてテレビの画面で見ていたことを、わたしは思い出す。編集され切り取られて、その後もくりかえし目にすることになったそのシーンが鮮やかによみがえる。津波に襲われた土地へ向かって、寸断された交通網にたよらず手にカメラを持ち、自前の車で援助物資を運んだ人たち。住人が着の身着のままで避難したあと残された室内。ある一点を指して止まった時計の針。道端に突然現れる漁船の残骸。体育館の壁に貼られたおびただしい写真。それらを目にしたときの生々しい感覚。あのときわたしはいったい何に立ちあい、何に立ちあえずにいたのだろう。このクロニクルの利点は、読みながらそういう問いをまっすぐ立てることができるところだ。

 「2011.3.11」はふたつのカタストロフの起点をしるす日付だ。ひとつは地震と津波による自然災害、もうひとつはそれによって原子力発電所がメルトスルーにまで至った人為災害。自然災害は生命のもつ奥深い力によって時間を「大喰らい」しながらも回復可能かもしれないが、人間の愚挙による原発事故に終わりは見えない。何世代もつづく巨大な負担を、土地に、海に、生命全体にかけつづける。それが起きたとき、わたしたちはすでに出来事の始まりに立っていたのだ。はてしない未来形を含む現在形で、それはいまも、そこにある。あのとき「袋小路の始まり」に立っていたことを『カタストロフ前夜』は静かに教えてくれる。

 このテクストの著者であり翻訳者である関口涼子は「あとがき」にこう書く。

──東日本大震災というきわめて重要な出来事を前にして、わたしが何よりもまずカタストロフと距離の問題を扱うことにしたのには、自分が外国にいるという状況があるだけではなく、翻訳者として当事者と非当事者の間を絶えず行き来し、ある出来事をどのように書けるのか、または書けないのか、という問題に絶えず直面していたことが働いていると思います。そういう意味では、この作品は、カタストロフとはどのように翻訳可能か、という問いでもあります。(P.239-240)

 パリという遠隔の地で観測され、記録され、熟考されたことばたちは、日本との往還をへて、距離と時間を丁寧にはかりながら、曇りを払って見晴るかす視野を開く。だからこそ『カタストロフ前夜』は逆に「いまここ」を指差すのだ。

身体という反響板――「声は現れる」

 次の「声は現れる」は著者が大切な人を2人失ったことから結実した作品だという。喪失と不在について、録音された声が聞く者の現在に突き刺さってくることについて。声の亡霊は現在形として現れ、聞く者の自制をかき乱し、空気を揺らしつづける。

 目の前に亡骸があればそれは死を確認するたしかな方法になるが、遠く離れて電話や手紙によって伝えられる死や、津波や事故による突然の訃報は残された者を宙づりにする。カタストロフによる死の多くは直接確認できない。強い痛みをもたらす喪失は、ダメージの傷みから悼みへと変容し、不在という認識によって常態化する。それでも声は現れる。ここでは、生きている自分の身体を「反響板にすることによって」その声を受け入れ、その声に触れようとする詩人の、余熱のこもったことばたちに読者は立ちあうことになるだろう。

詩人としての抵抗――「亡霊食」

 最後の「亡霊食」には、まずオードブルのように、雲や霞や煙を食うという、楽しい話題が盛りつけられていてほっとする。垂涎の食べ物たちも登場する。味や香りといったあえかなものを、想像の網の目にすくい取り言語化しようとする試みもある。谷崎潤一郎、岡本かの子、ゴンクール兄弟、斎藤美奈子、ラブレー、吉田健一といった作家たちと食べること、飲むことにまつわるエピソードも楽しい。消えゆくものたちとの愛おしい時間。いっしょに食べた人との記憶。そのときのあたりの風景。それらの関係は日々あらたに、かけがえのないものとして生き直される。だが茸や果実やチーズの彼方から震災は亡霊となって侵入する。味もなく目にも見えずに。その亡霊はわたしたちの固有の生が終わっても消えることはない。「放射能」という語をフランス語のテクスト内で使わなかったのは「詩人としての抵抗」だったと関口は書く。

 語りかけてくることばは明晰だ。フランス語をくぐりぬけた痕跡が快く残る日本語には、感覚の底まで降りてくる透明な響きがあって、しかも痛みをもった身体性が感じられる。これは稀有なことだとわたしは思う。「立ちあえなかった」者の視野に、いまも「立ちあえずにいる」おびただしいカタストロフが現在形で呼び込まれるとき、書き手の発することばへの信頼が生まれ、あらたな思考が呼び覚まされる。はかなく消えるものたちの揺蕩(たゆた)いをことばに刻む詩人/翻訳家のことばを、じっくりと味わいつくしたい本である。

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