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千葉雅也さん×綿野恵太さん『「差別はいけない」とみんな言うけれど。』刊行記念対談 【後編】シティズンシップが変える社会

記事:平凡社

 差別を受けた当事者でない者が、差別を非難する時代へ――。綿野恵太氏は、現在生じている差別批判のロジックの変化、そのポイントは、「アイデンティティ・ポリティクスからシティズンシップへ」である、という。この認識は、どんな事象・言論・事件・出来事に見出すことができるだろうか。この変化を認識するとどんな効用があるだろうか。シティズンシップの時代が抱える対立や葛藤、そして困難を検証する。

 対談後編では、シティズンシップのロジックと、監視国家・管理国家の進展や、進化心理学的な見方の台頭がどんな関係にあるか、などが論じられます。

≪前編≫はこちらより

左右両方に共通する管理社会化

千葉:最近、「普通に人が生きるとはこういうことだ」という規範性がすごく前面に出てきているように思うんですね。

 例えば、結婚もそうだし、性的に刺激的なものをあまり目にしたくない、とか。まあとにかく、よしとされるのは「無難な生活」ということなんですね。そもそもクィアな生き方って、人と同じ生き方をしない可能性があるということです。普通の生活という規範をも引き裂くところにクィアの挑発性があったはずです。そういうことをいっていられなくなったような気がします。

綿野:安全や安心を求め、「衣食住を充実すれば良い」という発想自体別に間違ってないと思いますが、それが規範になってしまっていますね。リベラルも非リベラルも関係なく、管理されること、監視されることに対する脇の甘さを感じますね。むしろ良いこととして歓迎している。

千葉:そう思います。西洋近代的な価値観から外れるような人たちはもうほんと絶対悪として排除する、そういう管理を志向する。

綿野:安心・安全を第一の前提として社会をつくり、波風立てる人間、要注意人物を排除しようとする管理国家とか監視国家に向かって進んでいっているんですね。

千葉:そもそも21世紀を通して、これは左右を問わずですが、管理・監視を容認・要請する傾向がどんどん強まってきている。右も左も管理化・監視化に向かった。そのことが、逸脱的な性を排除してきたと見るべきです。

 ビッグデータの活用が可能になったのがすごく大きいでしょう。ビッグデータを使えばある程度可能なんだから、人間の行動は予測できる方がいいでしょ、みたいなことを右も左もいうようになってきて、予測不可能な生き方をすることが、もうなんか過去の遺物同然になっている。

綿野:そうですね。不審者をみんなで通報しよう、となっていますね。

千葉:左右両方に共通する管理社会化、それに対する不気味さを僕はひしひしと感じます。「普通の生活」というけど、結局なにがそれを保証するかです。

 今日の生物学主義の問題が、ここで、不気味な光を放ちはじめていると僕は思っています。つまり、アイデンティティがソフトウェアレベルだとすると、それをすっ飛ばして、ハードウェアレベルで「人間にとって必要なことって、そもそも何ですか?」みたいになってくる。そのときに頼りにされるのは進化心理学や神経科学になってくるでしょう。
このあたりはかなり思弁的になってきますが、例えば、かつてのフェミニズム。第3波フェミニズムは基本的に、女性の身体的条件はそれとして、さまざまな生き方や選択が可能である、と構築主義的に主張するものでした。それが今日では、「やっぱなんだかんだいって、女性は産む性でしょ」とか、「いろいろあるけど、そこは男女の分担、もう、生物としてあるでしょ?」といった居直りがあからさまになってきた。かつてのフェミニズムの歴史を知らない、ネット上でフェミニストを自称する女性も、あるいはリベラルの男性も含めて、すごく素朴に「本来の男女のあり方はやっぱり大切にしましょう」みたいな感じが吹き上がってきている。そういう感覚がある。

アーキテクチャと「よき人びと、よき管理社会」

千葉:現代中国の管理社会って、古代中国の発想が連綿と続いていると感じます。老荘思想、老子の「無為自然」は、仏教でいう「無」になることで真理に近づく、という話とは違います。基本的に古代中国の哲学は、どれもこれも政治の問題と関係していて——そこから外れているのは荘子——、基本的にどう支配するか、いかに統治するかという問題です。

 老子の無為自然とは、何もしなくても治まるということ。一番自然な状態で過ごせば、問題は起きない、犯罪も起こらない、全部がうまく治まる、という話です。その無為をアーキテクチュアルに実現しているのが、現代の中国社会ではないか、と思います。

綿野:現代中国経済の専門家の梶谷懐さんは「市民社会がアーキテクチャの暴走を抑える」というモデルを立てて対抗軸にしようという。千葉さんのおっしゃる無為自然だったら、シティズンシップは無縁なのでしょうか。

千葉:まあ、アーキテクチャと対立するシティズンシップというとき、どういう運動体を想定しているかにもよります。

綿野:キャス・サンスティーン――ナッジの生みの親ですが――、彼はアーキテクチャを使って民主主義を打ち立てようとしています。アーキテクチャで市民社会を育成する、市民になるように誘導するわけです。政治をそういうものにしようとしている。アーキテクチャに管理され、誘導される人間の発言や行動は果たして政治なのかどうか。

千葉:みんな誘導されて「いい人」になるわけでしょう?

綿野:そうそう。多様な議論を受け入れるように管理されて、「善き民主主義社会」が生まれる。そういうふうな夢物語をサンスティーンは目指している。

千葉:そもそも民主主義というのは、まったく異質な人たちと向き合って、その他者とどうするか、ということだったと思うんです。ヤバい奴とも話すわけです。アーキテクチャに誘導され、教育されるというのは政治の否定です。古代中国的な意味での中国化だと思います。そうなれば「徳治」だから。いろいろな意味でいま道徳が大きく浮上してきています。いい人にならないとまずい、全体を丸く収めるためにいかにいい人になっていくか。いい人でない奴はとにかく弾く。そういう道徳性の浮上が厄介ですね。

綿野:徳が高い人はおのずと人望を得て、そういう人が統治すれば、ということですね。

千葉:でもナッジの場合、ほんとに徳が高くなってるわけじゃないでしょう。ナッジされて、その結果としてよさげな振る舞いをするようになってるだけ。そうではなくて、悪と向き合い葛藤し、有徳性を獲得することが、徳の高い人間になることじゃないか、そういう徳が視野から外れてしまっているんじゃないか。

綿野:魂のレベルが低い、でしたっけ。

千葉:そう、魂のステージが低いくせに、環境的誘導によって「徳高エフェクト」だけが生じている状態でしょうか(笑)。人間として間違っていると思います。

綿野:そうですね。悪は排除する、自分の見たくないものは見ない、という傾向が増幅されています。

シティズンシップの論理の限界

千葉:いま複雑なことが通じなくなっている。深刻に、言語が弱体化している。そういうふうに大きなスケールで捉えた方がいいと思います。そのことはいまの政治的方向性、左右に共通する政治的な方向性に関わっているだろうと僕は思っている。右が悪いとか左がいいとかということではない。

綿野:そうですね。進化生物学や社会心理学、とくに道徳の感情的基礎を考えているジョナサン・ハイトに典型的ですが、「政治的スピーチの中に人々の本能のスイッチを押す部分を、うまく取り込めるようにすれば支持者が広がるから、リベラルはそういう努力をすべきだ」などといいます。単純にスイッチを押せばみんな感動する、動員できるという話になってしまっている。そうするともう言葉もなくなるし、政治自体がもうどんどん消えていくように思います。

千葉:保守は、人間の非合理的な尊厳という次元に訴えかけるでしょう。それはリベラルが苦手とすることです。保守は、リベラルに対して余分なものを備えている。だから保守は強い、という議論があります。

 リベラルが、人間の尊厳という非合理性に訴えるロジックをいままで軽視してきたからいけない。そのくせ、「人間の尊厳とは?」という非合理性を追究せずに、「スイッチを押せばいい」みたいな、安易な話にジャンプしてしまう。あまりにもお粗末なんです。どこまでも合理主義の発想だからダメなんです。合理主義で解決しようと思うから人の心を掴めない。保守派からそう嘲笑われてる。

 保守の側は、人間が生きていくには非合理性が大事だとほんとうに思っている。これは宮台真司さんもずいぶん前からそう言っています。保守のポイントは、非合理性がわかるか否かだと。

 さっきのアイデンティティの話にも結びつきますが、「合理的に振る舞えば大丈夫」というのがシティズンシップの論理ですが、よく考えれば、「自分があるクラスター(のみ)に所属している」って不合理でしょう。説明しきれない。「自分が何者であるか、それを説明はできないが引き受ける、それが人間にはどうしても必要だ」と考えるかどうか、それが分水嶺です。

 そこで安易にシティズンシップ・ポリティクスを持ち出す人は、非合理性を軽視している。そうすると、こんどはマジョリティのアイデンティティ・ポリティクス、例の弱者男性論なんかが立ち上がってくる。どうしてああいうものがゾンビのように湧いてくるか。人間には非合理的なアイデンティティがやはり必要だからです。それが必ず回帰してくる。

 ということは、本当の左派だったら、非合理性をちゃんと視野に入れて――スイッチを押せばいいじゃなくて――、合理性と非合理性を結び付ける回路をつくらなければならない。これをちゃんというだけの胆力のある議論がなかなか出てこないんです。

綿野:たしかにシティズンシップの論理に基づく同性婚といった権利要求はすべきだと思います。ただ、結婚といったものが良いという価値観、今でさえノーマルなものが規範になりすぎると、結婚できる・できない、といった分割線がひかれてしまう。弱者男性みたいなマジョリティのアイデンティティ・ポリティクスが強化されてくる。ある意味でノーマルさが多様性を縮減しているのではないか。

千葉:人間は何らかの集団的アイデンティティと無縁では生きられません。そして、アイデンティティは必然的に排他的です。排他的であることを完全に避けようとしても無理です。排他性はゼロにはできない。だとしたら何を求めるべきか。程度の問題でしょう。排他性の程度をできるだけ低くするしかない。

 悪口を言い合ったり、陰口たたいたり、適当に愛想笑いしたりして、人はやってきたんですね。それを全部きれいに整序するというのは土台無茶です。誰もがどこかしらで排他的であることを極端化しないですませるにはどうしたらいいか、僕はそう思っているんです。

綿野:礼儀ということになるでしょうか。

千葉:そう。僕はそれを「礼」と呼んでいます。それをアーキテクチャだったり、ナッジだったりによって自動的に実現するのがいいとは思えない。ひとりひとりが自らの排他性に向き合い、礼をわきまえる。そうしないと人間に無意識がなくなってしまいます。

綿野:千葉さんは精神分析的な問題をいっているわけですね

千葉:そうです。精神分析的な用語がなぜ必要かといえば、人間ひとりひとりが、反省する存在として他者と向き合う必要があるからです。反省という人類の特性がなくなっては困るわけです。反省しつつ上手くやっていく必要がある。でもいまはアーキテクチャ主義者が反省性をなくそうと思っているわけです。

綿野:『アメリカのユートピア』でフレドリック・ジェイムソンが、みんなが国民皆兵で全員が軍隊に入って、ベーシックインカムを与えて衣食住の面倒を全部見たとしても、他の人間に対する妬みや嫉みといった「享楽の盗み」は残るだろう、といっています。

 つまり人間は「衣食足りても礼節はわからない」わけです。やはり精神分析が必要になるのではないか、と。『「差別はいけない」とみんないうけれど。』では、進化生物学や行動経済学の問題や認知バイアス研究を紹介したかったこともあり、精神分析の問題は扱えませんでした。そのあたり、進化論の問題と精神分析をどう接合できるのかできないのか、考えたいと思っています。

千葉:今回の本は、進化論の問題にしても、これまでのリベラルな政治論では本格的に扱われてこなかった問題をひじょうに冷静に取り込んでいるな、と思いました。

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