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千葉雅也さん×綿野恵太さん『「差別はいけない」とみんな言うけれど。』刊行記念対談 【前編】アイデンティティとシティズンシップ

記事:平凡社

 差別を受けた当事者でない者が、差別を非難する時代へ――。綿野恵太氏は、現在生じている差別批判のロジックの変化、そのポイントは、「アイデンティティ・ポリティクスからシティズンシップへ」である、という。この認識は、どんな事象・言論・事件・出来事に見出すことができるだろうか。この変化を認識するとどんな効用があるだろうか。シティズンシップの時代が抱える対立や葛藤、そして困難を検証する。

アイデンティティ・ポリティクスとシティズンシップの見取り図

千葉:綿野さんが、『「差別はいけない」とみんないうけれど。』という本を出されました。この本が、僕が柴田英里さんや二村ヒトシさんと一緒に出した『欲望会議──「超」ポリコレ宣言』とも関わるテーマを扱っているので、今日は綿野さんの提示された問題について展開してみたいと思っています。

綿野:本書でも触れていますが、執筆のきっかけを説明させてください。批評家の絓秀実(すが・ひでみ)さんに『「超」言葉狩り宣言』という本があります。1994年の刊行です。差別に反対する言説(反差別言説)を批判的にとらえようとしている。絓さんは、反差別の言説には、民主主義的なものと自由主義的なものがあるといっている。

千葉:ああ、そこを受けているのね。

綿野:そうなんです。90年代の本ですから、現在のように「アンデンティティ・ポリティクス」という用語はさほど広がっていませんでしたが、『「超」言葉狩り宣言』が批判したのは、要はアイデンティティ・ポリティクスだったんです。

 それを読んで、現在とは状況が全然違うなと思った。それがこの本を書こうと思ったきっかけです。たとえば杉田水脈(みお)議員が「LGBTには生産性がない」と発言しました。差別を批判するロジックと世間の受け止め方が様変わりしたと感じたので、それをどうにか言語化して、大きな見取り図をつくってみたかった。

千葉:なるほど。で、その見取り図というのは?

綿野:要はアイデンティティとシティズンシップというふたつのロジックがある、それを対比的にとらえるということです。ある程度力業で強引に作りました。批評の野蛮性を発揮した、ともいえます。

 1990年代は、差別・反差別を考えるとなると、アイデンティティ・ポリティクスが中心でした。対して、現在、杉田発言を批判する言説は、アイデンティティに立脚した当事者以上に、非当事者の市民が批判するわけです。自分が善き市民だと思っている人たちが批判する、というロジックに変わってきたのではないか。「アイデンティティからシティズンシップへ」という大きな見取り図を作って、その枠組みを設定するなかで、いま起こっている「ポリティカル・コレクトネス=PC」に関する混乱や、差別の問題について、ひとつずつトピックを立てていった、という感じでしょうか。

千葉:そうですね。アイデンティティ・ポリティクスというのは、例えば「自分たちはゲイだから差別される」とか、「女性だから差別される」とか、内側にいる当事者が、差別されたことに対して、外側に対して「ふざけんじゃねえよ」と声をあげる。これが昔からの反差別。当事者がやられて・やり返す。それが基本でした。

 でも、このロジックは行き詰ります。その後、現在は、当事者じゃなくても、一般的な正義の問題、普遍的な不公平さの問題として、「自分はゲイじゃないけれども、ゲイの人が不当な処遇を受けているのは、一般的な意味でまずいことである」「男性だけれども、女性に寄り添う、家父長的なものを批判する」と、非当事者が側方支援する、ということになる。

 以前はそうではなかった。アイデンティティ・ポリティクス的な「女のことは女にしか語れない」という立場だと、男が支援しますとかいっても、「でも、お前男じゃん」となって、話がこじれるわけです。これが行き詰まる。

 それじゃキリがないんで、どんなアイデンティティを持っている人でも、市民は一律に市民である、属性に関係なく市民は市民である以上、享受すべき基本的な権利が侵されているなら、市民ならだれでも訴え可能。だれがだれのサポートをしても構わない。みんなで声をあげて、みんなの権利を確保しましょう、となる。これがシティズンシップの政治、シティズンシップ・ポリティクスですね。「アイデンティティ・ポリティクスからシティズンシップ・ポリティクスへ」を「特殊性から一般性へ、特殊性から普遍性へ」と整理するとわかりやすいと思います。

綿野:著者よりも的確にご説明いただいて、もう千葉さんが書いたみたいな感じですね(笑)。付け加えるとしたら、アイデンティティ・ポリティクスは、反差別運動において「強いられた同質性」になっている、ということです。人はいろんなアイデンティティを持っていますし、個人のなかにもレイヤーが複数ある。しかし、差別にたいして団結し闘おうと運動を起こすときには、多様なアイデンティティであれ、最低限の要素を共有していなければなりません。なんらかの同質性を設定せざるを得ない。そうすると行き詰まるわけです。

 もうひとつ、アイデンティティ・ポリティクスはこれまではマイノリティの問題だった。それが変わりつつありますね。自身に対して加えられる差別を跳ね返すために、マイノリティはアイデンティティ・ポリティクスに依拠してきた。しかし、最近はマジョリティがアイデンティティ・ポリティクスを使っているんじゃないか。たとえば男であることの尊厳を取り戻したいとか、日本人であることの尊厳を取り戻したいっていうことです。

千葉:ネトウヨもそうだし、いわゆる弱者男性言説っていうのもそうですね。

綿野:だからナショナリズムも、昔の帝国主義的なもの、「あいつらは劣っているから俺たちが支配していいんだ」というものではない。むしろ「俺たちの方が虐げられているんだ。だから、俺たちの権利を回復しなければならないんだ」というふうに変わってきた。マジョリティ側が依拠するアイデンティティ・ポリティクスが出てきました。

 それを批判するために、反差別の言説も変質していき、シティズンシップのロジックがおおいに使われてきたのではないか。

千葉:「マイノリティのシティズンシップの論理とマジョリティのアイデンティティ・ポリティクスの関係」というのは、ややこしいですね。一般的な、市民権の名のもとで社会改革を訴えるといいながら、猫も杓子もマイノリティのことばかり取り上げ、彼らに味方してるように見えるのも確かでしょう。だから、いろいろなアイデンティティ・ポリティクスが生まれ、それが飽和した結果として、シティズンシップ・ポリティクスに転化した。

 しかしマイノリティのマジョリティ化みたいなことになった結果、マジョリティにおけるマイノリティという意識が先鋭化し、モテずに孤立しているヘテロ男性が、フェミニズム的な訴えに対して、「いやいや、本当に苦しんでいるのは、俺たち弱者男性だ!」という対抗言説を立ててくるようなことが起きるわけです。

排除をともなうシティズンシップ

綿野:いっぽうでヨーロッパで生じているのは、シティズンシップの理屈でマイノリティを排除すること。それもマジョリティのアイデンティティ・ポリティクスをシティズンシップの用語で塗り固めて攻撃(反撃)する、というかたちではないかと思います。

 例えばイスラムフォビア(イスラム嫌悪)。イスラムは、自由や平等に反している、女性差別をしている、同性愛者を差別している、というふうにとらえ、認めがたいマイノリティであるとする。移民たちに「ここは自由と民主主義の国なんだから、お前たちを排除する」という言説ですね。

千葉:イスラムの問題はすごくやっかいです。そういうふうに言うと、「いやいや、イスラムにだって自由主義的なイスラムがいるんだ」とか、「どっちも本当のイスラムなんだ」とか、「イスラムを旧来の習俗主義としてイメージするな」とか、いろいろ反応が出てきます。いずれにしても重要なのは、シティズンシップというと普遍的・包摂的な発想と思うでしょうが、その普遍的・包摂的なものに刃向かう人間は、一切人間として認めない、という強烈な排除をともなうということです。もう「悪そのもの」のように排除される。

 イスラムに限らず、その外延は「西洋社会とその外部」と重なっているところがありますね。日本でシティズンシップの議論をする人たちが、国外に生じている排除構造を国内で縮小再生産していることさえある。問題が多重になっているので、シティズンシップの論理で、「普遍的な包摂で、みんなの権利を守ればいいじゃん」なんて単純な話じゃない。ところが、ネットを見ていると、それが通用するかのようになっている。ひじょうに単純な人たちが大きな声をあげていて、もうあきれ果ててしまう。綿野さんの本は、そんななかで登場した、ひじょうに啓蒙的な本だということですね。

世界をクリアにみるためのツールとしての二項対立

綿野:最近、トランスジェンダーに対する差別的な言説がすごく増えた気がします。しかも、そういう人たちはフェミニストであると自称している。フェミニズムは、アイデンティティを本質主義的にとらえることを批判してきたはずなのに、他のアイデンティティを抑圧する結果になっている。もうめちゃくちゃな状況になっている。そこで「アイデンティティか、シティズンシップか」という二項対立で現状をまとめて、どんな対立・葛藤があるか、を今回の本で見ていきたいと思ったんです。

千葉:まず、道具として「アイデンティティ vs. シティズンシップ」という対比はひじょうに使い勝手がよい。単純な対立ではなく、ダブルバインドのような形になっているのが重要なポイントなんですね。いまのところ、そのダブルバインドを弁証法的に乗り越えるという都合のいい筋はまだ見えない。この本の長所は、安易に総合を目指さずに「アイデンティティとシティズンシップのダブルバインド」を追究している点にあるといえる。

綿野:対立・葛藤はマクロにもあるし、ミクロにもあるんですね。

千葉:いろいろな炎上案件を、「そうか、この問題がミクロにも現れているんだな」という目で見てもらうといいですよね。

綿野:大風呂敷を広げるようですが、読者の世界の見方を変えてしまいたい、と思いました。ブレヒトの異化効果(Verfremdungseffekt)です。ブレヒトは、日常見慣れたものを、未知の・異様なものに見せる効果をねらった、そういう演劇理論を構想しました。それを流用していえば、私たちが見ている世界の見え方を、アイデンティティとシティズンシップの枠組み・読解格子を使えばもっとクリアになるはずだし、見通しがよくなると提示したかったんですね。

千葉:大事なのは、シティズンシップからの要求を、批評的に引いて見る視点をもてるかどうか、それがポイントでしょう。

 ネットでは、シティズンシップでみんなを包摂せよと要求する人たちが、一般に「リベラル」と言われますね。その人たちが対立しているのは、基本的に安倍政権。「既得権益から外れた人は自己責任で、はい、もうしょうがないです」というのはいけない、だからその人たちも包摂しましょう、というのがシティズンシップの論理。それを批判すると、「じゃあお前は安倍政権支持するのか」みたいな話になってしまう。この単純な「悪い政府 vs. よいリベラル」というアホみたいな二項対立がネットで蔓延しているから、物事が見えにくくなる。

 例えば、僕なんかは同性愛当事者として、むしろアイデンティティ・ポリティクスがいまなお重要である、ということにこだわっていますが、その観点からシティズンシップの論理を批判をすると、一部の人たちからネトウヨ認定される。二項対立にすべてを帰着させるからそういうことになるのです。

 重要なのは、保守かリベラルかという政治的対立と離れたところで考えることでしょう。リベラル側の論理をシティズンシップの論理としていったん捉えて、アイデンティティの政治とどのように対立するのかを考える。そうすることで、現在の状況に対して分析ができるようになるんですけどね。

綿野:そうですね。LGBTの杉田水脈の発言のときも、リベラル/保守の闘争が起きて、批判が殺到した。たしかに安倍政権の自民党議員の発言ではあるけれども、「安倍支持か、安倍支持でないか」という本質的でないフレームが騒動を大きくしたと感じます。

千葉:保守かリベラルかという軸がよくないんです。そこから離れたところで見ようということですよね。

《後編に続く》
後編では、シティズンシップのロジックと、監視国家・管理国家の進展や、進化心理学的な見方の台頭がどんな関係にあるか、などが論じられます。

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