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疫病が語られるフレーム『災害の物語学』

記事:世界思想社

『災害の物語学』(世界思想社)
『災害の物語学』(世界思想社)

 スーザン・ソンタグが『隠喩としての病』で示したように、病のなかには、結核や癌のように特有の想像力を喚起するものがある。疫病も、個人および共同体にもたらす影響から、特有のイメージを伴って表象されてきた。疫病が慢性の病とは著しく異なって人々の嫌悪感をかき立て恐怖心をとらえるのはなぜか。疫病が人々を恐慌に陥らせる要因は、第一にそれが身体にもたらす劇的な変容である。黄熱病におけるチョコレート状の吐瀉物、天然痘における全身の皮膚の膿胞、コレラにおける激しい下痢や嘔吐などは、身体の崩壊過程をまざまざと眼前に現出し、看病する者をもひるませる。第二に、その進行の速さである。コレラの場合、最初の徴候が現れてから数時間のうちに死に至ることもまれではなかった。コレラや黄熱病の死に至る速度に比べれば、同じ感染病といっても結核は慢性病に近い。第三に、その致死率の高さである。黄熱病の致死率五〇パーセントをはじめとして、数週間のうちに数千人にも及ぶ犠牲者を出すような疫病は人々に恐慌を引き起こす。最後になるがとくに重要なのが、疫病の感染・伝播力、すなわちその越境する力である。疫病発生となるや、患者は隔離され、水際での厳しい検疫態勢が敷かれるが、疫病はやすやすと境界を越え障壁をくぐって侵入し、次々と犠牲者を出す。

 集団・共同体を脅かす病である疫病には、隔離の問題、排除の問題、迷信や噂といったコミュニケーションの問題、社会階層の問題、罹患者をめぐる倫理の問題、医療の問題、都市の公衆衛生対策の問題など、さまざまの問題系がかかわってくる。感染源や感染経路が不明な疫病は、たいていの場合、「外来のもの」とされ、その原因は往々にして大衆に嫌悪・反感をもたれるグループ(移民・ユダヤ人等)に帰されてきた。病を特定の病理学的過程として一義的に語ることはできない。それは社会的なフレームのもとに理解されるものなのである。病というものが身体に統制のできない要素を抱え込むことだとすれば、疫病はとくに、個人の身体と共同体における集合的身体の両方のレベルでの統制不能性を露わにする。そうした疫病を語りのフレームに収めることで社会的・科学的に統制しようとするのが、プリシラ・ウォルドの言う「アウトブレイク・ナラティヴ」である。ウォルドによれば、社会は病をフィクションのフレームを利用してとらえようとする。新奇な病が発生するとき、その病の正体を突き止め、経路を逆にたどり、感染源を確認するのは探偵小説の枠組みである。また、見知らぬ余所者(よそもの)が共同体を脅かすというのは、古来反復され、SF小説でも踏襲される物語のパターンなのである。原因が特定され疫病が封じ込められるまでの一連の出来事は、特有の語句やイメージやストーリー展開をもって繰り返し語られる。それは蔓延する疫病がいかにして制圧されるかという物語である。ウォルドはこの「アウトブレイク・ナラティヴ」の原型を、二〇世紀初頭のチフス大流行時にメディアを巻き込んで大々的に展開された「チフスのメアリー」騒動にみる。このとき、感染源と特定されたアイルランド移民の女性は、病原菌をばらまく社会ネットワーク上のハブとして名指され、社会的なスティグマを負うことになった。では、近代医学による原因特定と感染封じ込めという過程が確立する以前の時期において、疫病をめぐる言説はどのようなものだったのか。

(中略)

 十九世紀以降、「医療化」の道をたどってきた疫病をめぐる物語は、いまも容易に脱医療化し、神話的な要素やゴシック的な要素を噴出させる。

(西山けい子「疫病のナラティヴ」、中良子編『災害の物語学』より。引用文献は割愛)

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