我々の内面の問題を解く鍵は、江戸時代に潜む 『神道・儒教・仏教』より
記事:筑摩書房
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これから江戸時代の神道・儒教・仏教いわゆる三教と、この三教とともに江戸思想史を構成した蘭学(洋学)、キリスト教、民間信仰などについて、それらをひとつにまとめて、江戸時代の思想と宗教の全体像を述べてゆく。
江戸時代の思想と宗教の歴史的展開についてどういったイメージを持っているだろうか。目立つ項目を順に並べてみれば、キリスト教の禁教とキリシタンの弾圧、檀家制度によって幕藩体制に組み込まれた仏教、近世の思想界において主導的立場に立った儒教、国学の勃興と明治維新のイデオロギーとしての復古神道の登場、蘭学(洋学)の発展による西洋の科学思想の受容といったものが並び、さらには社寺参詣や流行神などの民間信仰の盛行も加えることができるだろう。
これら簡単に思いつく項目を挙げただけでも、江戸時代の思想と宗教とをひとまとめに語ることの難しさに気づかされるだろう。範囲が広すぎるのである。いま挙げた大項目から枝分かれし、あるいは取り囲み、さらに中、小の項目が存在している。語るべきことは縦にも横にもますます広がってゆく。
神道、儒教、仏教、蘭学(洋学)、キリスト教、民間信仰など、これらを単体で語ることは可能であり、むしろ単体で語ることが得てして思想史研究者として誠実な態度とされるが、江戸時代の思想と宗教のありようを全体として語ろうとするとき、これらの諸思想・宗教は一対一どころか一対多で複雑に関係しあっていて、単体で語ることは、間違いではないが、正しくもないということになりかねない。精密な地を這う視線の一方で、上空から大づかみでも全体を眺める視野も必要である。そうでなければ、江戸時代の思想と宗教の姿の実像はわからない。
しかし、これは難事業である。この難事業をあえて行う。したがって専門家からすれば気になる細かい疑問点は多くあると思うが、筆者があえて蛮勇をふるった意図を汲み、俯瞰的な歴史の<<語り>>に必要な飛躍であるか否かを見極めて欲しい。
こうした江戸時代の思想と宗教を語ることの難しさは、それだけかえって江戸時代の思想と宗教の多様性をも表している。多様性は豊穣さと言い換えても良い。この豊穣な江戸時代の思想と宗教を考えてゆくなかで、単に江戸時代の思想と宗教の実像を明らかにするという実証的研究にはとどまらない、それを踏まえたうえでの二つの視点を得ることができるだろう。多くの読者にとって、そのためのきっかけになることを願っている。
一つは、明治維新の近代化はなんの脈絡もなく突然登場したものではなく、近代日本の前提となるものが江戸時代にすでに準備されていて、近代日本の問題を解く鍵がその中に秘められていること。もう一つは、明治の文明開化を通過し、日本人の意識は表面的には欧米化されたように見えるが、深層は江戸時代と地続きであり、今を生きる者としての我々の内面の問題を解く鍵もまた江戸時代には潜んでいること。
しかし、この鍵を解くためには、準備が必要である。
その準備のため、江戸時代の思想と宗教の範囲の広さのあまり散漫になる可能性のある本書の試みに一本の背骨を通してくれる近世仏教について、簡単にアウトラインを示しておこう。
我々が過去を見る時、知らず知らずのうちに、今ある常識という眼鏡によって視界が歪められていたり、そこにあるはずのものが見えないということが起こる。それは稀に起こるというのではなく、頻繁に起こる。いや、宿命的に起こると言ってもよいだろう。
宗教について言えば、我々は二重の眼鏡をかけて江戸時代を見ることになる。我々の時代は、第二次世界大戦の敗戦によって国家神道が否定されて以降の時代だが、その否定された国家神道を中核とした戦前の宗教制度は、その前の江戸時代の宗教のありかたを否定した上に成り立っている。
近い時代の戦前と戦後の価値観の相違には意識的でも、江戸時代についてはどうだろうか。無自覚に戦前の江戸時代観を下敷きにして江戸時代を理解している場合があるのではないか。ここでは長らく近世思想史研究のうえで傍流であった近世仏教について語ることにつとめているが、その問題意識からすれば、辻善之助(1877-1955)に代表される「近世仏教堕落論」によって語られる場合の近世仏教などは、こうした二重の眼鏡で見たものの典型と言ってもよいだろう。
前の時代を継承するか、否定して乗り越えるかはその時々の政治・社会の状況によって違ってくるが、明治<<維新>>は、万世一系というイデオロギーに抵触する<<革命>>という古代中国の言葉を嫌っただけで、実質は革命であったため、前の時代の否定が国を挙げて行われた。
近世と近代の間に大きく画期として横たわるのは神仏分離と、それによって引き起こされた廃仏毀釈である。日本の宗教の風景はこの時、大きく変更を強いられることになった。
それは単に神仏習合の伝統を改め、神と仏とを切り離すということではなく、神道を中心として日本の宗教制度を作り替える試みであり、仏教以外の儒教やキリスト教、あるいは民間信仰に至るまで影響を蒙るものであった。明治政府の神道国教化政策そのものは早々に頓挫するが、天皇を中心とする国民統合を目指すという国家の意志は変わらなかった。明治21年(1888)6月18日、伊藤博文(1841-1909)が大日本帝国憲法の草案を審議する枢密院での会議の冒頭で述べた言葉は、近代日本の宗教の枠組みのグランドデザインそのものであった。
(ヨーロッパにおいては、)宗教なる者ありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して、人心此に帰一せり。然るに我国に在ては、宗教なる者其力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。仏教は一たび隆盛の勢を張り、上下の人心を繋ぎたるも、今日に至ては已に衰替に傾きたり。神道は祖宗の遺訓に基き之を祖述すと雖、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し。我国に在て機軸とすべきは、独り皇室あるのみ。
伊藤博文は、仏教も神道も国民統合の手段としては力不足であり、天皇崇敬を国民統合の機軸に据えるべきだと主張している。天皇崇敬による国民統合が具体化されたものがいわゆる広義の国家神道体制である。神道も仏教も、この国家神道の下位に位置づけられた。<<広義の>>としているのは、国家神道体制を国家による神社管理に限定しようという論調が一部にあるためで、筆者はこれを狭義の国家神道と呼び、広義の国家神道に内包されるものとしたうえで区別している。
この伊藤博文の言葉の中で注目してほしいのは、仏教が「上下の人心を繋」いでいたという箇所である。国家神道が占めるべき位置にかつて仏教があったという認識を伊藤博文はしている。